無音に凝おる

白き夢

声高に漣めく

紅き闇


声々立てずに騒ぎ出す

我が愛しき呪仔達よ


非時に凍れる月読に

群狼走狗の詠ふは儚き


地を削そぎ

遥けき無明に喰らひ縋れど

優しく迫る銀閃は

君を捕らえて

離さない


さぁ

祈りを捧げましょう……


侍神異聞伝
―逢魔ヶ刻の雪―

之刻
The deepest silver.



 壁に立て掛けられた、無数の斧や刀剣。
 いつものような裂帛の気合も、檄の声も無く。
 早朝の修練場は、ただ冷たく……静寂の寄り代となっていた。
 床板を踏み締める軋みに答えるのは、只々無言の空気。
 空間そのものに染み込んだ戦意と緊張感が、肌に心地良い。
「全く……自主練するような殊勝な兵士はいないのか、この城には」
 辺りを見廻すも、人一人いない。
「ま、わかりきっていた事なのだがな」
 俺は精神集中のため、奥の『剣霊の間』へと歩を進めた。

 ……キィ……

 不意に立ち止まると、留まった重みで床板が鳴く。
 『剣霊の間』とこの空間を隔てる、一枚の薄い木戸。
 俺はそこで、足を止めていた。
 僅か板一枚隔てた、向こう側の空間……何かが、違う。
 ……『何か』が、いる。
 そして、こんな"穏やか"な殺気を放つような存在を……俺は、一人しか知らない。
 無言で気配を殺し、ディザイスァーの鞘を返して抜刀体勢に入る。
 ―――今の俺は、どこまで強くなれたか―――

 静かに息を吐いて瞑目する……。
 能力を使うのは随分と久しぶり故、巧く動くか否か……。
 重心を前方にずらし、上半身を捻りつつ……跳躍。
 ……<無明零斬刀>……発動。

 俺の右腕が、魂の律動と融けて、空間との共振を産み出す。
 視覚が歪み……全てが無数の粒子の集合として、魂と刀に認識されていく。
 超越次元に魂を移転させることによる、更なる高次における斬撃。
 この次元では、全てが複数の次元軸で構成されたマトリクスの集合体に過ぎない。
 時間軸を未来へ……そして、三次元で戸板一枚隔てた所にいる『その男』へと、抜刀。

 ―――ィィィィンッ!!

 刹那の内に戸板が爆ぜ飛び、俺と『その男』との狭間の大気が四散する。
 時間と空間を弾き飛ばして発動させた、渾身の一撃……自分でも、完璧無比な斬撃だと思った ……が。
「甘いな。所詮は、嘴の黄色いひよっ子か……」
 この男は、アッサリとそれを受け止めた。
 それも、反対を向いて胡座をかいたまま、指で切っ先を摘むという非常識極まりない方法で。
「殺気も、気配も消していたつもりだが……」
「フン……随分と無粋な挨拶をする奴になったものだ。だが"つもり"程度であるなら、まだまだ 甘い。平和に呆けたか?」
「随分と手厳しいな……師匠」
 この男は、テュール。
 俺の師匠にして……アースガルド最強と言われる男だ。
 事実、王であるオーディンとの手合わせでも、全て勝利を納めている。
 しかし、能力を持って産まれなかった故……第四位神に留まっている。
 まぁ……『ただ純粋に強い俺様に、能力なんぞという無粋なモン要らんわボケェ』と言うの が、彼の座右の銘なのだが。
「気にするな、馬鹿弟子」
 そう言うと、軽く刀を突っ放す。
「相変わらずだな」
 俺は軽く笑い、ディザイスァーを納める。
 しかし……。
「……アンタが来てるとは、珍しいな」
 俺はふと呟く。
 師匠がこの道場に来るのは、俺に最後の稽古をつけた以来……大体、二年振り位か?
 それ以後は戦地を転々と渡り歩いて、月に一度ヴァルハラに戻って来るか来ないかくらいだ。
「ああ……今日は貴様に用があって来た。フェンリルの捕縛を手伝え」
「……フェンリルの捕縛……だと?どういう事だ。『星辰の戒封』の効力は、まだ継続している のでは無いのか?」
 フェンリルとは……ロキと、その妻たる女巨人アングルボザとの間に生まれた、魔獣の一匹だ。
 件の長兄たる魔狼フェンリルは……ヴァルハラに程近い湖の小島に建てられた社の中に、 幼少の頃より幽閉されている。
 なお、その他にも二人……長女の冥女王ヘルと、次男の怪蛇ヨルムンガルド……がいるの だが、奴等については、また何時か述べるとしよう。
「確かに、戒封は十二分に効いているがな。奴等の成長は、その封印をも超越する程に進行して いるらしくてな……」
 ……星辰の戒封。
 オーディンがロキの仔等に施した、極めて強力なルーン呪術。
 月と太陽を核とし、無数の星々を巨大なルーン文字に見立てて張り巡らされた、巨大な十二 芒星型の結界……それは『活力の停滞』を示し、奴等の力と凶暴性を押さえつける働きがある。
 しかし唯一の欠点は……停滞によって活力が膨張し続ける事により、生命のリミッターが内側 から崩壊するという副作用。
 即ち、『輪廻の聖環』からの解脱による、一時的な不死。
 だったら封印なんぞせずに殺せという説もあるが……それではロキが黙っていないだろう。
 彼等を敵に回して戦争を仕出かすのは得策で無い……それがオーディンの判断なのだ。
 しかし、何時かは封印は解けてしまう……その時に起こる総力戦が<ラグナロク>なのだ。
 よってオーディンは『ラグナロク対策委員会』を設立し、来るべき時に勝利を納めるため の準備をしている。
 嫌な事を後回しにするのは、あのじーさんの悪い癖だが……まあ、文句言っても始まらないな。
 ちなみに、何故その委員に張本人のロキ自身が立候補したのかは、謎に包まれている。
 "息子達が罪を犯すのを防ぐのが、父親としての務めですから"とは言っていたが……如何な モノか。
「……流石は、あのロキ・ブランドといったところか」
 俺は、ぼそりと呟く。
「全くだな。……話を戻すぞ。既に、フェンリルは力を蓄え始めている……。学者連中の研究 結果によると、フェンリルに対する戒封の効力が78.65%まで落ち込んでいるらしい」
 テュールは、懐から研究レポートを取り出して言う。
 そこには無機質な文字の羅列と共に、色とりどりの円グラフや棒グラフが記されていた。
「このままでは、ラグナロクを待たずして暴れだすだろう……。こちらの迎撃準備はまだ出来て いないのでな」
「成程。そこで師匠がラグナロクまで縛り付けておくという訳か」
「そういう事だ……暫く、大きな仕事は無かったからな……まさに"最強"の俺様にお誂え向きの 仕事だとは思わんか?」
 そう言って自信ありげに軽く笑う。
 ……そうだ、この人はこういう人だ……。(汗)
 単に、フェンリルに近付ける程に無神経な男は師匠だけとか、そーいう話ではないのか?
「しかし、どうやって?」
 オーディンじーさんの呪縛を、真っ向から力で捻じ伏せるような奴を捕縛する……それは、 並大抵の技では無い筈だ。
 それ相応の手段を用いなければ……。
 俺がそう考えたその時。
「ああ、これで十分だろ」
 そう言って、横に置いてあった銀鎖をひょいと拾い上げる。
 部屋の隅に立てられた蝋燭の灯りを照り返し、儚げな輝きを見せる10m程の鎖。
 表面に付着した錆が、幾星霜もの歳月を閲した事を窺わせる……。
 ……これは……。
「……ヴァルハラの駐車場の入口のチェーンじゃないのか……コレ」
「おお、良くわかったな。いや、丁度手頃なモノはこれしか無かったのでな……おい、 どうした?」
 師匠は俺の表情の変化にも気付かず、チェーンをじゃらじゃら言わせながら言う。
「……あ」
「ん?どうした?」
「あ……アホかーーーーーーッ!!そんな物で縛れる訳無いだろッ!!」
 俺は師匠の襟首を掴んで、一気に捲くし立てる。
「じゃかあしいわ馬鹿弟子ッ!俺様の言う事に逆らう気かッ!?」
「ああ逆らうさ逆らうさッ!!こんなボロチェーンで縛れる訳無いだろッ!!」
「やってみなければわからんだろうがッ!!」
「わかれーーーーーッ!!」
 そして、恒例のドツき合いが始まった。


 カァー、カァー、カァー……。

 ホゥー、ホゥー、ホゥー……。

 コーケコッコー!!

「し・ば・れ・る・な?」
「はい……」
 およそ、半日程もドツき合っただろうか……。
 この馬鹿弟子は、やっと自分自身の非を認めた。
 ふぅ……倒れ伏した負け犬の背中に胡座を掻いての一服……なかなかに良い物だ。
「全く……馬鹿弟子風情が、師匠たる俺様に楯突くなど……百万年早いわッ!!」
 俺様は、馬鹿弟子の頭をげしげし踏み付ける。
「あだだだだッ!!止めて下さいよ、師匠ッ!」
 まぁ、これくらいにしておいてやるとしよう。
「……と、遊んでいる場合では無いな……」
「ぐぇっ」
 一発背中を踏みつけ、横手へ降りて立ち上がる。
「さあ、さっさと行くぞ馬鹿弟子。ああ貴様は荷物持ちだからな」
「手伝えってそーいう意味かーーーーーーーッ!!」
「それ以外何がある」
 起きあがって絶叫する馬鹿弟子を尻目に、俺様は剣霊の間を出た。
 さてさて、どうなる事やら……。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ヴァルハラを出て、東に13.8km、北に21.6km。
 そこにあるのは……怖い程に透明度が高く、バクテリアすら棲まぬ、直径1840m深度 38m程の湖。
 そしてその中心には、東西に275m、南北に300m程の小島。
 その中心に位置する建造物が、魔狼フェンリルの幽閉された社である。
 白亜の壁面に、翡翠色の屋根、鮮朱の柱……それは極めて風雅であり、見る者の目と心を 奪う……。
 しかしその内部に棲むのは、史上最強の悪辣非道なる魔狼であるということを、決して失念 してはならない……。
 そして、その封印の効果を持つのが……湖の外側に建てられた十二の小塔によって組成される、 直径3kmにも及ぶ巨大な十二芒星。
 その頂点となる塔には一人ずつルーン魔導師が配され、魔力を終始練りだす事により、結界の 補助を勤めている。
 尚、1ヶ月毎に人員の入れ替えが行われる……。

アースガルド書房『国内の主要史跡ガイド(ヘーニル編)』より抜粋



 俺様達は、結界を成す塔の一つ……俗に、それぞれを時計の文字盤に見立てて呼ばれる 内の『第八之刻』に到着した。
 しっかし……。
「さっさと付いてこぬか、馬鹿弟子がッ!!平和に日和ったか?」
 後方数十mを、ほうほうの体で歩いてくる馬鹿弟子に怒鳴りつける。
 巨大な箱を積んだ荷車を引き摺り、荷物持ちの面目躍如といったところか。
 全く、たかだかドッグフード1tを引き摺らされるだけで、音を上げるとは……全くもって、 だらしの無い。
「師匠〜……この大荷物の意味は一体……」
 やっと追いついて地面に突っ伏すと、俺様の顔を見上げながらそう問う。
 その頭上でにこやかに微笑むビタワンの顔が、何とも笑いを誘うではないか。
「そういえば言っていなかったな。ソレはフェンリルの餌だ」
「……はあッ!?」
 とたんに呆けた声を上げる。
「実は、奴が腹を空かせて毎夜吼え立てるらしくてな……あまりに五月蝿いもんで、魔導師の 一人がスタッフサービスに電話して、オーディンの事を訴えたらしい」
「ああ……また、知りたくも無い汚れた事情を知ってしまった……」
「今更気にするな。……まぁそんな訳で、『縛る前に、ちょっと餌やってこい』という勅令が 下ってな。ちなみに金払ったのはロキだが」
「……何というか、まぁ……」
 納得出来ないようだが不精気に呟く。
「あまり細かい事を気にするとハゲるぞ。俺様は結界を解かせて来るから、貴様はここで 暫時待っていろ」
 俺様はそう言い放つと、聳え立つ大理石造りの塔を見上げた……。

 ギィィィ……。

 木製の扉を内側に押すと、軋む音が湿った空気に乗って流れ出す。
 月に一度、僅かな時間のみにしか開かれぬ塔の空気は冷たく……石と石との狭間に繁殖した 苔や黴の饐えたような臭いが、ツンと鼻腔の奥を突く。
 一歩中に足を踏み入れると、扉の隙間から漏れる陽光の中に、舞い上がった埃がもうもうと 舞う。
 慌てて袖口で口元と鼻を覆うが……どうやら、全く掃除の手が行き届いていないらしい。
「随分と、腐れた空気だな……魔導師はちゃんと生きてるか……?」
 聞く者も居ない冗談交じりに、小さく呟く。
 壁の窪みに置いてあったランタンを取り、懐からジッポーを出して灯すと、扉を押さえる手を 離して階段へと歩を進めた。
 再び軋む音が響き、この塔は外界と切り離された……。


 ブーツの踵の立てる足音が、石造の螺旋階段に乾いた響きのアクセントを与える。
 その音は韻々と木霊し……足元の闇から生じ、遥か高みの闇へと還る。
 ランタンのか細い灯りは、滞った魔力によって深く澱んだ闇にはほぼ無力であり、切り取る 闇は手元だけに過ぎず……結局俺様は、自分自身の感覚を鋭敏に張り巡らせて、盲目に歩むしか 無かった。
「これでは、時の流れすら正確に掴めぬな……」
 獣脂の焦げる臭いが、焔の生み出した微風によって、闇と共に揺らぐ……。

 かきっ、こぉん、こぉん、こぉん……。

 どうやら時の流れに埋もれて、所々風化して脆くなっているらしく……石段の縁が欠け、 欠片が奈落の闇へと転がり落ち、単調な音を刻んで沈みゆく。
 ちょうどその時だった。
 手元から生じる穏やかな灯火が、眼前に一枚の扉を闇から浮かび上がらせたのは……。

 コンコン。

「ヴァルハラよりテュール。オーディンの命により用向きに参った!誰かおらぬか!」
 ドアノッカーを叩き、高らかに名乗りを上げる。
 しかし、返事は無かった。
「返事をせいッ!誰もおらぬのか!?」
 しかし帰って来るのは、無言に佇む闇の重圧。
 十秒程待ってみるが、一向に返事は無い。
「……入るぞ」
 腰より宝剣を抜き放ち、右足を前にずらして正眼に構える。
「いざ、御免ッ!紅染烈刀流奥技・無双斬竜け……」
「ちょっと待ったーーーーーーーーっ!!」
 俺様が大上段に振りかぶった刹那、扉の奥から響く声と足音。

 ばたんっ!

 直後に凄まじい勢いで、扉が開かれた。
「はぁ〜、はぁ〜……頼むから、その物騒なモンをしまってくれ……」
「何だ、厠にいたのか」
「そうさ……」
 膝に手を突いて、肩で息をするその男……フォルゲールは、そさくさとズボンをずり上げた のだった……。

「さて、用向きを聞こうか……」
「昼間から酒とは、話せるな」
 天井に吊るされた蛍光灯の御蔭で、この部屋は明るい。
 俺様は朱杯を傾けながら、テーブルの向かいに座った魔導師フォルゲールを見据える。
「まあ、ね。で、用件は……フェンリル絡みの事かい?」
 彼は空になった朱杯を見、再び満たしながら問い直す。
「その通りだ。これから奴を捕縛する故、一時的に結界レベルを下げろ。俺様と馬鹿弟子が 通れる程度にな」
 俺様がそう告げると、フォルゲールはすっと眼を細める。
「ふむ……弟子っていうと、レイフォン君の事だね?」
「その通りだ。レイフォンのパワーレベルは、肉体120の精神80といった所だ……俺様は どちらも奴を超越している。よって、レイフォンに合わせてくれればいい」
「うーん、僕達アース神の波長に調律すれば、フェンリルにさしたる影響は無いだろうから…… O.K.だよ。他の塔の魔導師に通達する」
 そう言うと席を立ち、壁から伝声管を取る。
「あー、あー、第八之塔から伝達。第八之塔から伝達。各自、アース神の120の80、アース 神の120の80にレベルを落とされたし。これよりテュール氏及びレイフォン氏が、魔狼 フェンリルの捕縛に入る!丁度二分後、13:20、13:20をもって作戦を開始する! 以上、 伝達終わり」
 そう言って、伝声管を戻す。
「手馴れたものだな……」
 俺様は、再びテーブルについたフォルゲールに、簡素な賛辞を示した。
「そんなんでも無いさ。さ、行った行った!」
「ああ、邪魔をした」
 景気付けにと一息に朱杯を空け、扉の方へと踵を返した……。

 ギ……ギギィィィ……。

 入ってきた時と同じく、木製の扉は、石造の壁に擦れて軋みを上げた。
 外界の穏やかに流れる風と、清らかに澄んだ陽光が、肌に心地良く染み渡る。
 眩しさにぎゅっと瞑目するが、それがまた気持ち良い。
「やはり俺様には、あのような陰気な空気は似合わぬ」
 誰へという訳でも無く呟くと、不思議と昂揚感がこみ上げてくる。
「師匠、首尾はどうだ?」
 ふと声のした方を見ると、草叢に寝転がる馬鹿弟子がいた。
「ふん……まあ、上々とでも言っておくか。行くぞ」
「了解」
 そして、結界の内部へと足を進めた……。

 バチッ。

 塔の向こう側へと差し掛かった刹那、全身に微かな衝撃が走る。
「ふむ……どうやら、俺様達が通れるギリギリのレベルまで、結界を弱めてあるようだな」
「そうみたいだな……」
 後ろを見ると、馬鹿弟子もちゃんと通れているようだ。
 ドッグフードに関しては結界の範疇外らしく、全く干渉を受けている様子が無い。
 その後暫くは取り立て話題も無く、終始無言の下の行軍となった。
 無言故に、徐々に霧が出てきている事がはっきりと見て取れた……。
 そして次に足を止めたのは、満面の水を湛えた湖に辿り着いた時だった。
「随分と、薄気味悪い所だな……」
 そう呟きながら覗き込むと、水底の砂や砂利がはっきりと見て取れる。
 魚影や、水草の一本も……いや、アオミドロやミジンコによる微かな濁りすら、俺様の眼には 映らなかった。
 あらゆる生命が排斥された、聖水の湖。
 "聖なる"という名とは裏腹に、そこは死の寂気に彩られていた。
「噂には聞いていたが、是程とはな……」
 渡し船を捜しがてら、ぐるりと周囲を回る。
 葦や蒲すら生えていないその光景は、やけに寒々と映る。
 ミルクを大気に薄め散らしたような濃霧の中、水音一つしない。
 まあ、もしも結界内部に生物がいたら、それはそれで……。
「大問題だな」
 そして俺様は、クックと笑った。
「ん?何か?」
「気にするな。……お、あったあった」
 あっさりと切って返すと、ようやく見つけた小船を棒で手繰り寄せる。
「よし、乗るぞ」

 キュィ、キュィ……。

 櫂を漕ぐ音が、肌に張り付くような濃霧の中で波紋となる。
 ちゃぷちゃぷという水音と共に、無情な程の透明度を見せる水面が揺らぎ、小波の連なりが 軌跡を残す。
「あれが……フェンリルの社か」
 瘴気と共に、独特の獣臭さが濃霧に混じり始める。
 一般の理知を超えた光景の前に、先程の言葉が俺様の物なのか、それとも馬鹿弟子の物なのか すらわからなかった……。
 それ自体が生物のように蠢動する濃霧の切れ目から、除所にその社は威観を現し始めた。
 白亜の壁面が不動の如くに座し、鮮朱の円柱が静寂を切り裂き、翡翠色の屋根瓦が更なる威容 を醸し出す。
 島に小船を接岸させ、白砂が敷き詰められた庭園に降り立つ。
 その威容を仰ぎ見ると、それ自身が俺様達に対峙しようという意思を持っているのではないか という、奇妙な錯覚さえ覚えさせられた。
 今まで無数の戦場を踏み越え、無数の死線を潜り抜けてきたが……今回ばかりは、真に心から 畏怖を覚える。
「何で、こんなにも荘厳な封印施設を造ったのか……あのじーさんの考える事は、よくわからん」
 馬鹿弟子のそんな呟きが、背後から聞こえた。
「魔狼フェンリルはロキの息子だからな。どうやら"永き幽閉を受ける我が愛する息子に、せめて もの美しき慰み物を"とかいう懇願を受け入れたらしい」
「ああ、やっぱスレイプニル貰ったからか?」
「だろうな」
 俺様はさしたる感慨も無しに言う。
 スレイプニルとは、ロキが保釈金代わりにオーディンに献上したモンスターバイクの事だ。
 八連タイヤという異常極まりない構成で、V8エンジンという高出力のエンジンを搭載し、 魔力によって水上も空中も陸上と変わらず走る。
 ちなみにロキのお手製でもある。
 ……アイツは一体何者だ!?
 奴がネズミ色の作業着を来て、機械油まみれになってバイクを組み立てていた光景が、まざまざ と脳裏に甦る。
 まあ、そんな事を考えていても仕方あるまい。
 先ずは、任務遂行が先決だ。
「さて……久し振りのご対面と洒落込むとするか。最後に会ったのは、幽閉される前だからな」
「そうだ……な」
 そして、社の門を潜る……。


 朱色の門を潜ると、右手には無人の管理人室と受付カウンター(当初は管理人を立て て見張らせていたが、当然というべきか必然というべきか……色々と事件が起き、以後は管理人制度 を廃止した)があり、左手には二階へと続く階段があった。
「確か二階は、フェンリルの観測施設本部だったな……」
 オーディンに聞いていた社内構成を思い出すと、真正面……地下へと続く階段へと進んだ。
 地下一階からこの地階まで吹き抜けとなっている、巨大な一室……それが、フェンリルの 牙城なのだ。

 ギギィ……。

 階段の最下層、強靭な鉄拵えの扉をゆっくりと押し開ける。
 その内側からは……蟠るかがり火の赤が漏れ、厭らしい獣臭さがそぞろ流れ出して来た。
「全くよぉ……オレサマにだって人権……おっと、狼権だってあるだろ? ノックぐらいしや がれ」
 そう不平を洩らすのは、最奥の祭壇に横になって、退屈そうな欠伸をする巨大な銀狼…… 魔狼フェンリル。
 そのエメラルド・グリーンの眼球は、焔の赤を妖しげに照り返し、ひたと俺様達を見据え ている。
「気にするな、ワンコロ」
「誰が犬だ、誰が……何だ、わざわざ喰われに来たか? 猟師のオヂサマは助けになんざ来ちゃ くれ無ェし、オレサマは寝てる間に切腹させられて石詰められるようなヘマはし無ェぜ?」
 口の端が笑みの形に歪み、鋭利な牙が覗く。
 ……随分と、傲慢極まりない奴に育ったものだ。
「いや、貴様の親父から飯を預かって来た」
「親父からッ!? 流石は親父! 良いトコあるぜ!」
 狼は一瞬にして色めき立ち、その瞳が歓喜に染まる。
 知らぬがオーディン(待て)とは、良く言ったものだ。
 ちなみに馬鹿弟子は、扉の陰に隠れて必死で笑いを堪えている。
「で、何を持ってきたんだ?」
「まあまあそう慌てるな。おーい、飯をここにもて!」
「りょ……了解……」
 下唇を噛み締めて涙目になりつつ、馬鹿弟子はがらごろと荷車を引っ張ってくる。
 よく見ると箱には、どこで見付けて来たやら大きな布が被せてある。
 期待を煽るための小細工を弄すとは……流石は、腐っても俺様の弟子ということか。
 よく心得たものだ。
「あ〜……随分と久し振りに飯にありつけるぜ♪前に管理人喰い殺した以来かぁ?」
 随分と嬉しそうに、物騒な事を言うものだ。
 俺様は馬鹿弟子と目配せし合うと、布の両端に手を掛ける。
「では……」
「御開帳ッ!!」

 ばさりっ!

 布の取り払われる音と共に、巨大なドッグフードのパッケージがフェンリルの眼前に晒さ れた……。

 そして、数分後。

「はぁ〜、ごちそうさん」
 フェンリルは、満足気に嘆息をつきつつ、器用に前足の爪で楊枝を摘み、牙に挟まった食べ 糟を取る。
「うーん、ドッグフード業界の進歩には、本当に驚かされるぜ」
「あ……ああ……」
「そ……そうだ……な……」
 その……何というか……普通に喜んで喰ってしまったのだ、コイツは。
 当初の計画では、期待に期待を重ねた挙句の差し入れがドッグフードという事実に落胆した フェンリルを、二人がかりで嘲笑しまくる予定だったのだが……随分と読みが外れたものだ。
 所詮、プライドより食欲か?
 まぁ、フェンリルとは本来、ロキの中に眠る獣性が集約された存在だからな……。
「あー、アレ無ェ?虫歯予防にデンタボーンとか言う奴」
「あるかーーーーーッ!!」
 馬鹿弟子が速攻でツッコミを入れる。
 さて……そろそろ本題に入るか。
「おい貴様。そろそろ食後の運動といこうか?」
「……あん?」
 俺様の一言に、フェンリルの双眸が危険な焔の色を帯びる。
「まあ、そう構えずとも良い。ちょっとした力試しだ」
 そう言って、懐から例の鎖を取り出す。
「これは、神々が技術の粋を結集して作り出した強力な鎖……レーディングと銘を付けたの だがな」
 馬鹿弟子が後ろで笑い転げているが、取り敢えず無視。
「どうだ、これを切れるか?」
 すると、鎖を一瞥して一言。
「当然だ。まあ縛ってみろ」
 ふふん、といった感じで鼻を鳴らし、あっさりと言い放つ。
「よし……後悔するなよ」
 そして俺様は、フェンリルの四肢をガチガチに縛り付けた。
「どうだ、動けるか?」
「ああ」
 そしてフェンリルが息を詰めた直後。

 ビシッ!!

 硬い音を立てて、鎖は方々に飛び散った。
「あんなオモチャでオレサマを縛ろうなんざ、百万年早ェぜ?」
 侮蔑の表情で、俺様達を見下す。
「やっぱそれじゃ無理だろ、師匠……」
 後ろから馬鹿弟子が声を掛けてくる。
「当然だろ?」
「「は?」」
 俺様の一言の後に、馬鹿弟子とフェンリルの声が重なった。
「あんなオモチャで貴様を縛れるなんぞ、毛頭思っておらぬわ! 前座芝居だ、前座」
 目が点になっている馬鹿弟子は無視して、"やはりそうだったのか"的な笑みを浮かべる フェンリルの前に立ち、懐から先刻の倍以上太い鎖を取り出す。
 豪胆な鬼神を思わせる、揺るぎ無き蒼鋼の佇まい……傷一つ無き滑らかな表面は、まるで鏡面 の如くに俺様の貌を映す。
 何より、舞い散る斑紋と魔力の雪華が、その造りの精緻さを窺わせる。
「これは、ドローミという。魔力を熔鉄に込めて組成した、極めて強靭な鎖だ……物理力学面、 魔導力学面、どちらを取っても神界科学の最高峰と言って良いだろう。どうだ、切れるか?」
 フェンリルの眼前にちらつかせてやると、それを暫く矯めつ眇めつし……。
「どうやら、随分と危険な食後の運動になりそうだな」
 そう言って、にやりと笑う。
 どうやら、あまり乗り気にはなれないらしいが……そんな時の為の対策を、オーディンに紙に 書かせてある。
 俺様は一寸後ろを向いて、そのカンペに書かれた台詞を頭に叩き込む。
「よく聞け。我々神が貴様を封印したのは、貴様の力を恐れてのことだ。つまり貴様は、我々が 畏怖する程の実力者ということだ……癪だがな」
 そう言ってフェンリルの顔を見ると、意外そうな驚きと、照れが入り混じったような顔を している。
 よし、もう一押しといったところか。
「だから、きっとこれも切れるだろう。いいか、これを切る事は即ち、神々の叡智と技術の 最高峰を破ったということになる。きっと貴様の名は、永久に語り継がれる事になるだろう」
 多少、棒読み気味であったか……?
 これでは、オスカーが取れるか怪しいモノだがな……そう思って再びフェンリルを見やると、 その顔は不敵な自信に満ち満ちていた。
「そうだな……愚民共の間に名を轟かし、その心の中で偉大な存在になるには、それ相応の 危険を冒さねェとな……ひょっとしたら、歴史の教科書に載ったりするのかッ!?よーし、やって やるぜッ!!」
 掛かった。
 俺様は表情の変化を悟られぬよう、後ろを向いた。
「おい、馬鹿弟子。ちょいと手伝え」
 自信に溢れた顔のフェンリルの足元に屈み、二人掛かりで入念にドローミを巻きつける。踝 から、脛へ……白銀の体毛を押し分けながら、隙間が出来ぬように力を調節しつつ、二度巻きに 入った。
「しっかりと巻いとけよぉ?後で泣き見無ェようにな」
「貴様も、負け犬の遠吠えを響かせぬようにする事だな。貴様の下卑た吼え声は、あまりに 耳障りだろうからな」
「ぬかしやがれ」
 そんな啖呵を切り合いながら、ドローミの施封は終了した。
「まぁ、こんな所か……」
「そうだな」
 馬鹿弟子は立ち上がると、腕に付いた銀毛を払い落とす。
 俺様も立ち上がり、フェンリルの頭に手を置く。
「どうだ、今度は切れるか?」
「当然だろ?粉々にしてやるさぁ……」
 そう言い返し、深く息を吸い込んで瞑目する。
 俺様と馬鹿弟子が祭壇を降りた、その直後だった。
 大気の雰囲気が、目に視えて変動を始めた。
 空間に薄く伸ばしたように漂う瘴気が、まるで意思を持つ粘液のように蠢動を始める。
 別に、確固たる物質が眼に映る訳では無いのだが……細い枯枝のような指が……濡れた絹の ような触手が……ぬらりとした動きで、首筋を撫でるような感覚がする。
 陽炎の如くに、黒い旋風が吹き抜ける。
 幽鬼の怨嗟が流れ出すが如く……荒野に吼ゆる群狼の嘆きの如く……柔らかな、それでいて 不快な共鳴が鼓膜に触れる。
「嫌な、風だな……」
 馬鹿弟子の呟きは、薮蚊の如く群がる瘴気に飲まれ、随分と歪んで聞こえた……。
 そして、オーケストラの如くに全ての現象が混じり合い……全ては、フェンリルの白銀の 肉体へと染み込んだ。
「何だ……?」
 刹那の無音を経た、更なる刹那……その『異感』は生じた。
 フェンリルがその双眸を再び見開いた時……ソレは、紅蓮に燃えるガーネットと化していた。
 その中心で爛々と意思を主張する黄金焔を見た刹那、俺様の意識の奥で、何かが絶叫を叩き つける。

 ―――……ッ!!―――

それは、純粋なる深層意思の慟哭……声と呼べる程に華美では無く、叫びと呼べる程に整 ってはいない。
 言うなれば……魂の悶える、音。
 深淵の奥底で囁く、蟠り続けるディープ・シルバーの囁き。

 はるかとおくに、
 ばかでしになにかをしじする
 おれさまのこえがみえたんだ……
 おれさまのすがたがきこえたんだ……


―――この俺が、アンタに力添えしてやるぜ―――


 考える必要も無い程に、浅い所……考える意味も無い程に、深い所……
遥か遠く……遥か近くから聞こえる、激しく耳朶を撃つ、聲……

「……い……か……?」
 ……?
 誰だ……?
 寒気が走る程の浮遊感覚……
 やけに柔らかいくせに、寒気を覚える程に白く抜けた光条……
「し……う……生き……か?」
 大海の如く、圧迫感が音も無く迫る……
 だが、厭な気配では無い……
 このまま、眠るとするか……
 そんな考えが、鎌首を擡げ始める。
「師匠……生きてるか?」
 そうか……
 そうだった……な。
「ああ、無論だ」
 俺様は、刀に縋って立ち上がり、徐々に意識と感覚を叩き起こす。
 神経にかかった濃密な靄が、さっと晴れていくのを感じる。
「師匠に言われるまでも無く、<無明霊斬刀>で衝撃波は逸らしたが……多少、採算がキツいな」
 そう言って掲げ上げた腕には、過剰不可によって無数の裂傷が紅い痕を遺していた……。
 そうか……あの時聞こえた俺様の聲は……ソレか。
 敢えて気にしない事にして辺りを見廻すと……高位次元の召喚による空間歪曲で、俺様達の 背後には何の変化も無いが、その範囲外は凄惨を窮めた。
 膨大な熱量の通過により、壁面が引き攣れている。
 そして、飛び散ったドローミの欠片が……床板や壁面を穿ち、無数の小規模なクレーターを 作り上げていた……。
「いささか、洒落にならぬな」
 俺様の声は、自分自身でも信じられぬ程に寒々としていた。
 よもや、破壊されるとはな……あのトールですら、断ち切れなかったというのに。
 ……ん?
「なぁ……フェンリルは何処に行った?」
 俺様は、ふと辺りを見回す。
 当事者である筈のフェンリルが祭壇の上にいないのだ。
「ああ、あそこに」
 馬鹿弟子が指す先には……部屋の隅で眠りこけるフェンリル。
「曰く、『疲れたから寝る』だそうだ……」
「……そうか」
 結局、奴の脅威がはっきりとしただけか……。
「帰って、オーディン達と相談だな」
 そして俺様達は、社を後にした。



 やや遅れ気味の櫻霞を、静かに冷雨が撃ち落す。
「奴を縛る力が欲しいのか?ならば、私が授けようか」
「フン……俺様の名を、言ってみろ」


―続く―



<能書>
 ああもぉ、暴走しまくりです(笑)
 詳しくは、弐之刻で騙りましょう……。


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