BRAVERS STORY
〜交錯する時の欠片達〜


〜第九話「神が堕ちる、動き出す悲しみの歯車」〜


「ふぅ、今宵は月も見目麗しゅうってか…これで酌をしてくれれば、言うこと無しなんだがなぁ」
 城の庭園の片隅、人目につかない場所でカインは一人、月見酒と洒落込んでいた。
「団長ッ! 呑気なこと言ってないで、ちゃんと警備してくださいッ!!」
 いや、一人ではなかった。彼の側で怒鳴る人物がいた。
「ふ…若人が固いことを言うな。ほれほれ、注いでくれよ。団長命令ってことでよろしく」
 月を背に影になっていて表情はよくわからないが、声から怒っていることは充分に判る。彼はそれを軽く受け流すように言った。
 青紫色のウェーブのかかった髪と、白い肌に浮かび上がるような赤い瞳。剣士隊の制服をキッチリ身につけた姿から、彼女の真面目さが伝わる。
「――ふざけないで下さい」
 地面にあぐらをかいているカインは容赦なく彼女に蹴り飛ばされた。ゴロゴロと無様に転がる彼に、ふんと彼女は鼻を鳴らした。
「おいおい、乱暴だな。メルサイア、君はキレイだが、気が短いのがタマに傷だな」
 今度は鉄拳が彼の鳩尾にしたたかに打ち込まれた。
「他に言うことは?」パンパンと軽く手を払いながら、彼女は身悶えしている上司を見下ろした。
「また、一段と筋肉がついたようだな…」
 蹴りが飛んできたが、三度目の正直と彼は冷や汗モノでそれをかわした。
「なんだ! 褒めてるんじゃないか」
「言葉の表現法に問題があります」
 腰に両手をあて、眉間に皺を寄せたメルサイアは、肩を落として大袈裟な溜め息をついた。いまだ彼女の手には、彼から手渡された酒瓶が律儀に握られている。
「はぁ! これでは部下たちに示しがつきませんよ」
「あははは。ま、国王がアレだから家臣がこんななんだよ。全部エクスの責任だ」
「エクスティム様のせいにしないでください! まったく! 団長がコレだから、副団長の私が苦労するんですッ! これでは下の者に示しがつきませんッ!」
「わあったわあった」彼は今にも噛みつかまんばかりの勢いで叫ぶ彼女から顔を背けた。「めでたい席に説法はやめてくれよ。無礼講だって」
「年中無礼で通しているようなあなたに、そんなことを言う権利はないと思います。さっさとお勤めを果たして下さい」
「うわッ! コラやめろッ! 命令違反は軍法会議にかけられるんだぞッ! 横暴だッ!!」
 喚き散らす彼に聞く耳持たず、首根っこを掴み、問答無用で彼女はズルズルとカインの身体を引きずり始めた。手足をばたつかせる彼の姿からは、団長の威厳はまるでない。

「――ん? ちょっと待て。メル、一時停止だ」
 引きずり続けられてしばらく経ち、城門前まで差し掛かったところでカインはメルサイアに言った。
「なんですか。命乞いなら受け付けませんよ」
「はは…その点については観念してるよ。ほれ、アレだアレ。うちのモノだろう?」
 彼の指先の延長上には、一つ人影があった。
「…ちょっと待ってください。様子が変です」
 身体を引きながらこちらに近づいてくる様子は、口にせずともそれが異常なことを二人に報せた。カインを放り出したメルサイアは駆け出していた。
「もうすこし優しく扱ってほしいモンだなぁ…」ぼやきながら、遅れて彼も彼女の後を追った。
「どうした!?」
「…メルサイア様……カイン様も…おいでですか…?」
 彼女の姿に安堵の表情を浮かべ、緊張の糸が切れたのか、その者は膝を追って倒れ込んだ。
「団長もおいでだ。しっかりしろ! 何があったんだッ!」
「メル! あんま刺激するな。傷に触るッ!」
 揺さぶり起こそうとするメルサイアの手を無理矢理引き剥がした。彼女の掌には、血がベットリと纏わりついていた。
「あ…す、すみません!」それを見て彼女も気付いたようだ。心底悔いているように、彼女は申し訳なさそうに深く頭を下げた。
 カインはその者の前に屈んだ。姿格好から見て間違い無い、青年の着ている物は剣士隊で支給されている制服。つまりは、彼の部下でもある。
「何があった?」
「城下が…たったみ…つのか……げが…あああああ!!」
 それを思い出したのか、頭を抱えた彼は恐怖の顔で叫び出した。
「おい! しっかりしろッ! おいッ!! ――チッ! ダメだ。息してねえ。クソッ! なんだってんだよ…」
 カインの呼び掛けを振り払うようにかぶりを振り続けた青年は、ゼンマイが切れたかのようにピタリと動かなくなってしまった。
「だ…だだ団長!! アレ…アレなんですかッ!!?」
「ちっとは落ち着け! 今度はなんだ!?」
 メルサイアの指は城下の方角の空を指していた。顔を上げたカインの両目は見開かれ、ある種の恐怖に竦んだ。
 龍。
 蛇のような漆黒の巨体をうねらせ、獲物の品定めをするようにうろうろと紅蓮の両眼を動かせている、巨大な龍がそこにいた。
「おいおい…ゲストの招待はしてねぇぞ。誰だ? あんな物騒なモン呼んだのは」
「団長ッ! ふざけてる時ではありませんッ!!」
「わかってるよ。オマエはこの事をエクスに伝えろ。オレは街を見てくる」
「しかし、一人では…」
「オレを心配するほどオマエは偉かねぇだろ! 事は一刻を争う! さっさと行け!!」
「は、はいぃぃッ!!」
 怒号と彼の気迫に気圧された彼女は逃げ込む様に城内へ向かった。それを見届け、カインは城下へ向かうべく踵を返した。


「テイロス様、エクスティムが参りました。何用でございますか?」
 エクスティムはカインの伝言に従い、ガランと別れて国王テイロスのもとへやって来ていた。
「来たか、エクスティム。若干遅れているようだが、何かしていたのか?」
「――あ、いや、はは…特に何もしてませんが。カインの伝達が遅れただけではないですか?」
 虚を突かれた彼は、慌しく両手を振ってはぐらかそうとした。相変わらず、その居射抜かれるような眼差しは彼の苦手とするモノだった。
「まあよい。貴重な時間を割いて来てくれたのだ。早速本題に入ろう。お前も、年寄りよりもガランの相手がしたいだろうしな」
「いえいえ、とんでもない! いやはや…参りましたね…義父さん。そういう言い方は意地が悪いですよ。…で、なんでまた、こんなところで話を?」
 テイロスの目尻が下がると緊張が解け、エクスティムも思わず普段の口調に戻っていた。
 いま二人のいる場所は、城の地下宝物庫だった。もともとは緊急非難場所に設置されたのだが、ここ数百年というモノ利用される機会は少なく、いまでは倉庫代わりに使われている場所である。
 手入れと清掃は行き届いているので、地下独特の湿気意外は問題なく過ごせる環境だ。たまに物陰を拝借して居眠りをしていたことがある、彼にとってはかって知ったる場所でもある。
「少々、人に聞かれてはまずいのでな。人払いもしてある。お前にとって…ひいてはこの国に関わる重要なことだ。もちろん、ガランにもな…」
「それはまた……唐突ですね。それは、あなたが王位を退いたことにも関係あると見ていいのですか?」
「そうだ…私は卑怯者だ。お前に逃げ道を与えぬことで、私の責務を押し付ける形になってしまった。済まない…」
「王…」エクスティムは目を疑った。懺悔のように吐露する義父は、彼の知る威厳ある王の姿ではなかった。今の彼は、ただ疲れ切った、一人の男に過ぎなかった。
「リフィアに先立たれ、私は疲れ果てたのだ。お前も、私の息子として、これから話す不肖な父の頼みを聞いて欲しいのだ…『聖杯』を…」
「せいはい? …それはいったい…」
 初めて聞く言葉だった。そして、テイロスの口からでは重みが違った。
「結果として、お前を騙したことになるが、これだけは信じて欲しい。私は、決して誰でも良くてお前に国を託すわけではない。お前が信ずるに足りるから、国を、娘を託せると思った故なのだ。全ては言い訳に過ぎぬのやもしれんが、私は、お前が真相を知った時、その重みに耐えうることが出来ると信じている…」
「…義父さんの気持ちは、お察しします。俺のような不肖の息子で良ければ、喜んで力になりましょう」
「エクス…有難う」
「いえ…親孝行は嫌いではないので。それで先程の…聖杯、ですか。いったいどういうモノなのです?」
「うむ…言わば、『邪神の心臓』といえる。その在り処は…」
「――しッ! 興味深い話ですが、少し待ってください」
 いきなり人差し指を立て、エクスティムはテイロスの言葉を遮った。
「どうしたエクス…誰かいるのか?」
「ええ…。誰だ!? そこにいるのは!! 盗み聞きとは関心せんぞ…、――あ!?」
 叱責する彼の声は地下への階段を降りてくるガランを見ると、頓狂なモノに変わっていた。
「…すいません。そういうツモリではなかったのですが…」
 落ち込んだように表情を暗くする彼女に、彼は「参ったな」と頭を掻いた。
「怒るに怒れなくなってしまったな…義父さん、いかが致しましょうか?」
「…ガラン、大人しく部屋へ戻りなさい」
「待ってください。その話、わたしにも関わりがあるのでしょう? だったら、わたしにも聞く権利があるのではないのですか? 父様の、そのような辛い顔を見てしまってはなおさらです。娘のわたしに、何故なにも言ってくれなかったのですか!?」
「話せば、それだけで関わることになるのだ。このような話は、娘のお前にはしたくないのだ。自分の口から話すのが、コワイのだよ…私も情けなくなったモノだな…」
「――そんなこと…」
「エクスティム様ッ、エクスティム様はおられますかッ!!?」
 ガランが再度口を開きかけたそこへ、慌しい女性の叫び声が被さった。どたどたと階段を降りる音が地下に響いた。
「メル!? どうしたんだ、そんなに慌てて…」
 酒瓶を振り回しながら現れたメルサイアの姿に、エクスティムは一瞬目が点になるかと思った。しかし、彼女は決して冗談ではない蒼白な面持ちだった。
「エクスティム様ッ! あ、テイロス様…ガラン様まで…いえ、そんなことはこの際どちらでも構いませんッ!」
「メル、落ちついて。まずは、その手に持っているモノをしまって下さい。危ないですよ」
「え? ああ!? 私としたことが、ついパニクってしまったようで、申し訳ありません!!」
「――まあよい。して、メルサイア。そなた、何用で訪ねて来たのだ? その手…火急の用なのだろう。早急に述べよ」
 地下の薄明かりの中では見え辛い、彼女の掌の血を見てテイロスは威圧的に問い質した。あえて血と言わないのは、ガランを気遣ってのことだった。遅れてエクスティムもそれに気付き、表情を固くした。
「は、はい! そうでした! 城下が一大事なのですッ! 城下が何者かの強襲を受けているようなのです、城門前で倒れた兵士を発見しました…カイン団長から、エクスティム様へこのことを伝えるようにと受け賜った次第です」
「なんだと!? では、カインは…まさか一人で…」
「私は止めたのですが…団長は聞き入れてくれませんでした…申し訳ありません…」
「いや。メル、お前が謝る必要はない。判った。お前は出来得る限り、城の者たちを刺激しないようにしてくれ。もしもの時は、ガランを守ってほしい」
「…はっ! おまかせ下さい!」
「テイロス様、ガラン、俺は城下へ向かいます。カインが無茶をやらかさないか心配ですので…」
「…エクス、くれぐれも無茶はしないで…」
「ああ、もちろんだ。お前が居てくれる限り、俺は死なん」
 心配そうに見つめるガランの頭を胸に引き寄せ、安心させるようにエクスティムは言った。
「エクスティム…いざという時には、アレの使用は許可する。どうも嫌な予感がするのだ…」
「王!? アレとは…まさか、シロのことですか…?」
「うむ…外れていてほしいが、私の予感通りだと、それほどの相手…ということになるやもしれん…」
 曖昧に言葉を濁しているが、テイロスの顔には恐怖がちらついていた。この人物を恐怖させる存在、エクスティムは深く頷き、階段を駆け上がって行った。

「…大丈夫ですよ。あの方は、あなた様を残していくような方ではないでしょう?」
 エクスティムの背を見送って、なお不安に顔を曇らせるガランを気遣うように微笑んでメルサイアは言った。
「ええ…判っています。でも、メル…判り切っていることでも、不安を感じてしまう時もあるでしょう?」
「…そうですね。弱い故の不安を拭いたいがために、信じようとすることもありましょう。ですが、信じ続けられることは強さの証明です。例え何があっても、あの方を信じてあげなさい。あなたは、きっと強くなれます」
「うん…そうだと、いいわね…姉さん」
「もったいない御言葉です」彼女は照れ隠しのように、くすぐったそうに微笑んだ。
「では、まずはここから出るぞ。兵を集め、城の防備を完全にしなくてはならぬ」
 テイロスの意向に二人は頷き、彼のあとに続こうとした。が、

 ――ここに居たか。我等が父は…

「――うぁ…ッ!! この、感じ…まさか……」
「父様ッ!?」
「いかがなされましたか!?」
 その矢先、テイロスは胸を掻き毟るように押さえ、膝をついた。身体が呼応している。体内に宿した『聖杯』が。
 空間に歪が生まれ、闇が落ちた。


「ハアッハハハハハハッ!! もっと頑張らねえと、おっ死んじまうぜぇッ!?」
 紅蓮の戦火に歓喜の雄叫びが響き渡る。獲物を求め、その中を縦横無尽に疾駆するの一人の魔族、悪鬼デズルートだった。
「フフ…阿鼻叫喚ってこんな感じなのかしらね。ソドス、そろそろ楽にしてあげたらどう? 鼠も弱ってきているわ」
 その上空でソドスの頭上に乗ったイアルトがいた。彼女の声に応えてソドスが喉を唸らす。ソドスの喉を逆流して伝う膨らみが口内に達し、業火の輝きが闇に洩れる。
 吐き出された隕石にも似た業火球が地に着弾した瞬間、放射状に広がる炎が街を灼いた。断末魔の叫びは全て爆音に飲み込まれ、その中心にいた者全てが跡形もなく消え失せた。
「オイコラッ! 危ねえじゃねえかよッ、俺様まで巻き込む気か!!?」
「アンタがのろまなんじゃないの? しっかり避けてるんだから問題ないじゃない」
 高見からからかうように薄笑いを浮かべて言うイアルトに、デズルートは「ケッ!」と悪態をつき睨み付けた。彼の殺気に刺激されたのか、ソドスは彼に向かって吼え立てた。
「なんだ。殺るってのかよ?」
「よしなソドス。デズルートも、身内で争うほど不毛なことはないじゃないか」
「ハッ! 誰が身内だよ。俺様は仲良しゴッコしてるわけじゃねえんだぜ。その気になりゃぁ、テメエらだってブッ殺してやるぜ?」
 不敵に口を歪めて挑発的に言う彼に、イアルトは冷ややかな視線を送った。見え見えの挑発に乗っていては世話はない。
 次第に、彼の目の殺気も醒めて収まったようだ。彼女から視線を外し、城へ向かう方向へ足を向け始めた。
「ま、『オヤジ』のためだからな。アルゴルのヤロウの言う事も聞いといてやるぜ。それに…まずは、ここのヤツらを残らずブッ殺すのが先だからな――ん?」
 何かを見つけたのか、デズルートの足が止まった。彼の視線の先には、息を切らせ、目の前に広がる惨状に呆然と立ち尽くしているカインの姿があった。
「お…オマエら…」
 やっとの思いで喉から押し出した声は、自分でも情けないモノだった。
 チリチリと首筋が熱い。不快な生温かさの夜気が身体に纏わり付き、恐怖に絡め取られるようだ。それを振り払うため、もう一度彼は腹に力を込めて叫ぼうとした。
「オマエら…いったい何を……何をしているんだッ!!」
 ポカンと傍観するように見ていたデズルートは、彼の言葉を聞いて目を丸くし、ふいに大声で笑い出した。
「なんだぁ。何してるってお前、見て判んねぇのか? だとしたら、相当なバカだな」
「そう言わなくてもいいじゃないか。あまりのことに、気が動転しちゃってるのさ。現状が把握できてないんだよ」
 クスクスと笑いながらイアルトが言う。デズルートは「ああ」と合点がいったように頷いて、カインに向き直った。
「よぉく頭を回転させろよ。俺様たちが、どう見ても友好的じゃねぇことくらいは判るだろ? それで、現場はこんな状態、さて…どうかな?」
「オマエらが…やったんだな…」
「頭使えって言ってるじゃねぇか。そうだよ、正解だ。テメエもいくか?」
 神経を通り越し、身体の殻を突き抜けた怒りが腰の双剣を握っていた。自分の身体のはずなのに、そうでないような錯覚。感情に乗り遅れた意識が客観的に自分を捉えている。
「そうこなくっちゃな。言っとくが、俺様は強ぇぜ。テメエにはモッタイねえくらいにな」
「――うああああああああああああああッ!!!」
 両手に掴んだ双剣が力任せに振り下ろされる。デズルートはそれを軽くいなし、態勢を崩したカインの鳩尾に膝を打ち込んだ。彼の体はいいように吹き飛び、刺すような勢いで瓦礫へと突っ込んだ。
「ちったぁ冷静になれよ。じゃないと、すぐにおっ死んじまうだろうが。って…もう死んだか?」
「どっちでもいいさ。先を急ぐよ。いうほど時間は無いんだからさ」
「へいへい…先へ急ぐね。じゃ、行くとするか」
 カインの埋もれた瓦礫を一瞥し、デズルートはイアルトの言う通りに城へ向かうことにした。
 彼の通ったあとには骸の山が並ぶのだろう。彼の見つめる城への道を煌煌と照らす城下の灯は、これから彼に摘み取られる儚い怯えた魂のようだった。


 城門を抜けて赤く染まる城下を目の当たりにして、エクスティムは初めてメルサイアの取り乱し方を理解できた。
 緑を薫りを乗せて吹く風は、焼け焦げた鼻につく臭いを運ぶ不快なモノになっていた。空はどこまも広がる暗黒のように映り、絶望を表しているようだった。
「お? なんだ、まだ殺し損ねたやつがいたか?」
 誰も居ないと思った場所に生きた声がした。だが、その言葉の内容から、自分の望む生きた者ではないようだ。
「…何者だ? 人間…じゃないみたいだな。城へ招待した覚えはないな」
 振り向いてエクスティムは、その声の主、デズルートを見据えた。
「そういうテメエは何様だ? 焦らなくたって、ちゃんとブッ殺してやるぜ」
「…この国の王…一応な」言い切るにはまだ慣れないのか、最後に申し訳程度に付け足して彼は答えた。
「なんだ、テメエが大将か。だったら話が早ぇぜ。ちょっと訊きたいことがあるんだけどよ」
 ニヤニヤと笑う表情が神経を逆なでさせた。彼はそれを堪えて、いましばらく怒りを内に蓄える。
「……お前たちは、俺に何か訊くために城下を…民を踏み躙ったのか?」
 質問で返されたからか、その内容からかなのか、デズルートはきょとんとした表情をした。が、すぐに察したようにニヤリと笑みを面に戻した。
「いいや、俺様が殺りたかったから殺ったんだよ。それとこれとは話が別ってやつだ」
「…そうか…! ならば、お前の魂で償え…ッ!!」
 それを聞いて安心した。躊躇いの余地はない。彼は腰に下げた剣を抜き、真っ向から悪魔に斬りかかった。
「俺様の質問には答えてくれねえのか? その程度じゃ、俺様は倒せねえよッ!」
 片腕を横薙ぎにし、デズルートは臆することなく剣を弾き飛ばした。折れた刃が宙を舞い、地面に突き刺さる。
 すぐさまもう片方の手がエクスティムの喉に伸びた。
「そんじゃあ、ブッ殺す前に訊くぜ? …『聖杯』って知ってるか?」
「せい…はい?」
 エクスティムは掠れた声で疑問の眼差しを向けた。喋れるギリギリの力加減で喉を締められているせいか、思考がうまく働かない。

 …そうだ! 聖杯…義父が言っていた…話途中で具体的なことはまだ知らないが、こいつらが父の背負ってきた業なのか。いずれにしても、何らかの関わりがあることは確かだろう。

「チッ…その顔じゃ、聞くのは初めてみてえだな。ホントにテメエ王さんかよ? 使えねぇヤロウだぜ。まあいいや…そんじゃあ、ブッ殺してやるよ!」
「ぐ…お前にやるほど、俺の命は気安くないぞ…ッ!!」
 エクスティムはローブの右袖を振り払い、露になった二の腕をデズルートの前に突き出した。
「――光の粒子…集まり煌く一条の閃光へ…! 無限の白の只中へ還れッ!!」
 声に応えるように、彼の腕から白い光が迸った。それを見た瞬間デズルートは顔色を変え、咄嗟に突き飛ばすように彼から手を離した。
「くッ、反応が早いな…。もう少しでお前は消えていたぞ」
 腕を盾のようにして構えながら、エクスティムは咳き込みながら言い、呼吸が整ったところで口端を持ち上げた。
「その光…!! テメエ、『白』を飼ってやがるなッ!?」
 彼の笑みが気に入らなかったか、虚を突かれて慌てた自分が気に入らなかったのか。おそらく両方であろう。デズルートはエクスティムの二の腕を指差し、声を荒げて歯を軋ませた。
 今、エクスティムの腕に浮かび上がっているのは、さっき彼が放った光よりも更に白く輝く紋章だった。
「知っているのか? そう、これは『白の紋章』…俺の持ち霊だ」
『――コラッ! 誰がオマエの持ち霊じゃッ!! ワイはまだオマエを認めたわけやあらへんでッ!!』
 唐突に腕の中、彼の内で抗議する存在を感じ、エクスティムは驚きから顔を思わず顰めた。
「シロ…俺の見せ場に水をさしてくれるな」
『アホぬかせ! ワイがオマエみたいなヒヨッコのいいなり思われたら癇に障ってしゃあないわッ!!』
「やれやれ…どうにもお前は扱い難い。だが、頼んだぞ…力を貸してくれるな? お前も感じているだろう…何故か判らんが、この国の精霊の活力(マナ)が明らかに衰えている」
『ああ…まるで木の根やな…大陸全体に触手伸ばしとる…ワイは手が来る前に消しとるから影響ないが…並ではマズ食われるレベルや。この状況下では、精霊士もただのヒョロイ人間やで。…まさか、この力の源は…』
「――何を遊んでるんだいデズルート。そんな雑魚、さっさと消してしまいなさいよ」
 思わぬ力を相手が有していることに気後れしたのか、デズルートはこちらを慎重に探るように睨んでいる。それに焦れたイアルトが、上空から彼に呼びかけた。
「うっせえなぁ…、こいつがちょいと厄介なモン持ってやがるんだよ。イアルト、そういやお前…アレ持ってるだろ。手ぇ貸せよ」
「ふーん……アンタが『手を貸せ』なんて、珍しいこともあるモンだねぇ…、いいわ。ソドス、少し待ってなさい」
 ソドスの頭を一撫でしてから彼女は立ち上がり背中を反らせた。すると、そこから優雅に艶のある漆黒の双翼が生えた。同時にそれと同色の羽毛が宙に散らばり月光に映える。
 翼を羽ばたかせ、ゆっくりデズルートの前にイアルトは降りてきた。一見すれば天使のようだが、彼女のまとう気を見ればすぐにそうでないと判るほどの邪気がある。
「アンタ、『白』を飼ってるんだ。フフ…ずいぶんと優男に飼われたもんだねぇ」
 クスリと上機嫌な笑みを零して彼女はエクスティムを見つめた。目を合わせていると縛られるようで、惹き込まれそうな暗黒の瞳。だが、決して視線を反らすことができない魅力がそこにある。
『エクスッ! ボサッと突っ立っとる場合やあらへんやろがッ! シッカリせんかいッ!!』
「――あっ…シロ…俺は…」
 シロの呼び掛けに、彼はハッとして彼女から視線を外して正気に戻った。
『ち…ッ、ワイがついとったからエエようなモノの、オマエ…いまので一回死んどるな』
「なんの術だ。身体だけじゃない、意識まで金縛りにあっていたようだ…気分が悪い」
『ふん…大したことあらへん。今のは少しばかり強力な暗示、催眠みたいなモンや。かけられるモンが気ぃシッカリもっとれば大丈夫や。裏を返せば、オマエがまだまだ甘っちょろいってだけのことやがな…』
「こんな時に説教か…だが、そうと判れば問題はないな」
「…そろそろ、お話は済んだのかしら?」
 他人から見れば、今のエクスティムは構えてイアルトを見据えているだけのはずなのだが、そこで彼女は片手を頬にあてた格好で微笑んで言った。
『ああ、もう隠したところで仕方あらへんからな。その口振りからすると…オマエが飼っとるんかい…』
 ここで初めてシロの声が内から外へ向けて発せられた。エクスティムの目に微かな動揺が走ったが、「かまわん」とシロは彼に意識を投げた。
「なるほどねぇ…これで、アンタの中に『白』が在ることは決定的だね。けど、完璧じゃない。ワタシの瞳(め)から逃れることができたのは、内からの呼び掛けがあったから。まだ『同化』を果たしてない不完全体。だったら、ワタシの敵じゃないね」
 そう言うと、イアルトは右手をゆっくりと持ち上げ、掌を正面に向けた。
 途端にエクスティムの全身に虚脱感が襲い、膝から崩れ落ちた。瞳による催眠とは違い、巨大な力で無理矢理押さえつけられる方に近い。
「――シロ…ッ! こんどは何だ…? まるで力が入らない…力を入れても、その先から吸い取られているようだ…」
『チィ…!! やっぱりそうか!! ああ…まさにその通りや。吸い取られとるんや…ワイも、オマエも、こいつの『黒』に蝕まれようとしとるんや…!!』
「『黒』…だと!?」
「そうだよ。アンタが『白』の宿主なら、『黒』はアンタの天敵ってわけ。それと…気取られないように振る舞ってるのかもしれないけれど、この辺りの精霊は『黒』に掌握させてもらったわ。覚悟なさい。剣だけでは、ワタシたちには到底勝てないよ」
「く…ふざけるなッ! たとえ精霊の加護が無くとも、負けはせんッ! この国は俺が守るッ!!」
 歯を食い縛り立ち上がろうとするも、すぐさま見えない触手に全身を絡めとられ自由を奪われる。完全な束縛、もはや入れる力も無くなりつつあり、手足の感覚が薄れ始めていた。
『クソがあぁ…ッ! なんでやッ! なんでオマエみたいなヤツにッ!! ワイの声聞こえとるんやったら答えろッ!!』
 激昂するシロに、イアルトは嘲笑で応えた。
「聞こえるはずがないでしょう。ワタシみたいだから、『黒』も『同化』を果たせたんじゃないか。力ある者、それが唯一絶対の主の資格…あるいは、そうなるべく導くかどうかの選択。アンタたち精霊には選ぶ権利はあるけれど、行き着く先は一つに集束されているのだから」
「選ぶ権利ねぇ…ま、テメエらにゃもとから選択肢なんてねぇぜ。全員等しく遍く死だ…俺様がくれてやるぜ」
 デズルートが不敵な笑みを浮かべ、地に伏したエクスティムを見下ろした。彼はイアルトの方を見やり、顎で目の前にそびえる城を示した。
「おい、こいつ相手に二人じゃなくても良いよな? 俺様は一足先に行かせてもらうぜ」
「…そうね。アンタに任せるのも荒っぽいけど、このコの相手はワタシが適任みたいだし。いいわ、けど、碌に情報を聞き出さないうちに殺すんじゃないよ」
「へ、俺様に指図すんじゃねぇよ。やりたいようにやるだけだぜ…ま、今は聞いといてやっけどな」
「く…シロ…ッ! なんとかならないのかッ!?」
『すまん…ワイの力が『黒』に押さえられとる以上、束縛には勝てん…もともと『同化』しとらん状態ではハンデがあり過ぎるんや…せめて、ヤツの気が反れれば……』
 シロは珍しく沈んだ声でエクスティムに詫びた。それだけに彼の失意が伝わってくる。エクスティムはそれ以上彼に何を言うことが出来なかった。
「せいぜい足掻いてくたばっちまいな。テメエの守ろうっての、全部俺様がブッ潰してやるからよ」
 デズルートの笑みには、至上の娯楽を楽しむかのような含みがこめられていた。本当にそれが彼にとって、最高の遊びなのだろう。

「――ちょっと待ちやがれッ! まだ先には行かせねぇぞコラァッ!!」
 その時、城へ向かおうとする彼の背に大声で叫ぶ者がいた。
(…カイン…)
 もはや声すら出すこともままならないエクスティムの目に、その姿はおぼろげに映った。
「ヒトん家の庭…さんざん荒らし回って、更に土足で家に入るってか。感心しねえよ、オマエたち…うんざりだ…」
 左肩を庇いながら、足を引きずりながらこちらに歩いて来る。あまりに頼りなく、力ない姿のはずなのだが、不思議と居合せた者をその場に縛り付ける気迫があった。
『――! エクス、いまや! 力を集中させろッ! 一気にこの鎖断ち切ったるッ!!』
 イアルトの気がカインに反れたその一瞬、その刹那を逃さずシロが叫んだ。
「……ぐ…ああああああああああッ!!!」
 体中の筋肉、最後の一滴の力を搾り取るように彼は吠えた。見えざる黒い糸が身体を締め付け、呼吸がままならずに心臓が喘ぐ。
『まだや…耐えろ…持ち堪えるんや…!!』
 やがて支えられないまでに膨張したそれは、彼の体から白い光となって漏れ出した。
「――!! まだ余力が残っていたの!? しつこいオトコは嫌われるよッ!」
 彼の変化に気付き、イアルトが再び掌を構えた時、事は既に終わっていた。
『――コナクソぉおおおおおおおおおおおッ!!!』
 シロの咆哮と共に、光が爆発した。
 彼を縛る黒い糸は切れ切れに吹き飛ばされ跡形も無く消え失せた。幾重にも交わり重なる白い閃光の只中、ようやく解放され立ち上がった満身創痍の彼の姿があった。
「ハァ…、ハァ…、ハァ…、カイン…礼を言うぞ…お前のおかげだ…」
 カインは無言で片手を突き出し、親指を立てて応えた。
 どうやら、満身創痍はあちらも同じようだ。無理に口端を引き攣らせて笑みを作る彼の姿に、エクスティムは思わず苦笑した。
「へぇ…意外意外…まだやるモンじゃねえか。けどよ、状況は最悪なんだぜ。そこんとこ、キッチリ理解しとけや」
 城へ向かう足を一旦止めて向き直り、デズルートは面白そうに笑った。
「…ちょっと驚かされたね。でも、どうするつもりなの? 半死人が二人いて、一人分に事足りるのかしらね…」
 自分の力が破られたのか気に入らなかったか、イアルトの声には微かな怒気が含まれていた。その視線は、まるで炙られているように熱いモノだった。
「――エクス! オマエは城へ戻れッ! コイツらの相手はオレがやるッ!!」
 叫ぶとカインは双剣を抜き払い、大地を蹴った。疾駆する彼の周りの空気は、彼の残像と共に尾を引いて流れる。

 距離は瞬間的に詰められ、鋭い殺気をのせた二つの切っ先がデズルートの眼前で交錯する。鮮血が散り、カインの頬を濡らした。
「―――ンな…ッ!!?」
 胸に大きい十字傷を刻んだデズルートは、そのまま物言わず仰向けに倒れた。
「自分の力を過信してると痛い目みるぜ…オマエみたいな奴は典型的だな…まるで気にくわねェよ…!!」
 カインは吐き捨てると、立ちくらみを起こしたようによろけ出した。エクスティムは慌てて彼の身体を受け止めた。
「カイン! 大丈夫か!?」
「ああ…ちょいと熱くなり過ぎちまったな。けど、まだまだ温いぜ。こういうのはオレに任せとけよ。ここは引き受けるからよ…」
「お前の技量の信用がないわけじゃない…だが、こいつらは異常だ。それに、俺はこの国を…」
 カインは片手を突き出して制し、エクスティムの言葉を遮った。
「一つ言っておくが…王だからって責任重大とか、そういう考えはヤメロよ。別に、オレは君だけにこの国守って欲しいなんて、これっぽっちも思ってないんだぜ。オレだって守れるさ、これまでだって一緒にやってきただろう。人は変わるもんではあるが…一日二日でなんもかも変わってたまるものか。君が国を守る時は、オレが国を守る時でもあるんだッ! 君に押しつけるのもお株を取られるのも願い下げだッ!!」
 エクスティムに背を向け、彼は双剣を構え直した。
「ガランを守れ。こればっかりは、オマエにしか出来ないことだ。『兄さん』のオレにはできないからな。ガキのオレたち二人が、初めて忠誠を誓った姫様だ。理由は直感! 感じたままに動いて正解だと思えッ! さあ、行けッ、ここはオレが引き受けるッ!!」
「…すまない…だが、死ぬなよ…」
 意を決してエクスティムは踵を返し、振り返ることなくカインに背を預けて城へ走った。
『ええんか…? まぁ、聞くまでもないな…』
 シロは一度開いた口をすぐに閉じた。
 おそらく助かるまい。だが、それを言うことは許されない。シロは今の彼に、わざわざ判り切った事を言うほど残酷ではなかった。
(俺は…必ず守ってみせる…ッ!)
 苦渋は噛み締めた歯で堪え、意志を握り締めた拳は決意の固さ、内に居る分主の想いは色濃く伝わって来る。
『ええ…ワイは主に従うだけや。なぁ…エクス…』


「安心して…背中預けとけよ……恩に着るぜ」
「クス…見捨てられたことがそんなに嬉しいのかしら?」
「あぁ…嬉しいね。オイシイじゃねえか。たった一人で、こうしてテメエの相手してな…カッコイイったらありゃしねえ」
 ニッと笑うカインに、イアルトの笑みは嘲笑に歪んだ。
「ワタシの足止め? アンタもめでたいオトコだね。自惚れるんじゃないよ! 本気で殺ったと思ってるのかい? デズルート、いつまで寝てるんだい! さっさと起きるんだよッ!」
 彼女の言葉を受け、ピクリと痙攣するように大きくデズルートの腕が弾んだ。
「クク…ハアッハハハハハ!! スゲェなおい! ニンゲンにしちゃぁ、やるじゃねぇかッ!?」
「――ッ!?」
 手応えは確かにあったはず。しかし、そこに倒れていたはずの姿は既に無く、瞬時に彼の背後に回っていた。その胸からは、確かな傷痕があり、血が流れている。
「オマエ…不死身か!?」
「おっと、そいつは心外だな。俺様は不死者(アンデッド)じゃねえよ。少しばかり身体を退かせただけさ。ま、薄皮一枚ってところだな。全然きかねえよ」
 口の両端を吊り上げ、金の両目が見開かれる。彼の喜びと殺意が、同時に狂気と合わさりビリビリと伝わってくる。
「悪かったなァ、甘く見ちまって。だが、残念だったよなぁッ! その程度じゃ、俺様は倒せねえぜッ!!」
 腹に重い衝撃が走り、鈍い痛みがジワリと広がる。脱力感から膝が地面についたが、頭を鷲掴みにされた次の瞬間には身体が宙に浮いていた。
「誰が殺られるって? 偉そうにほざいといてバカじゃねえか!? 情けねえったらねえぜッ!!」
 振り上げた腕が最高点に達し、そのまま腕は一気に振り下ろされ、彼は地面に叩き付けられた。
「ぐぉああッ!!」
 衝突音が耳の中で暴れ、痛みは一気に通り越し痛みでなくなる。そこで身体が爆発でもしたかのような気分だった。
「ハアッハハハハ!! ホント、バカな奴だぜッ! せいぜい足掻いて、くたばっちまいなァッ!!」
「く…ざけんなよ……!!」
 霞んだ意識の中、足蹴にされながらもカインは拳を握り、それをデズルートに向けて解き放った。そこから拳大の火球が飛び出しデズルートの頬を掠めた。その一瞬の隙を逃さず、立ちくらみを押し切って彼に突進した。
「へぇ…魔術かよ…そうだったな。そういう手もあったかよ。面白ぇぜッ!」
「…オレも毎度無様なところは勘弁なんだよ。大人しくヤられてやがれッ!!」
「ハッ! 血ィ流しながらほざいてんじゃねえよ! 死に損ないがこの俺様に勝てるわけねえだろうがッ!」
 カインは双剣を振るが、それも虚しく空を切るばかり。いまの体力では勝利は有り得ないことは確かであった。
「…そいつはどうかな。オレは執念深いんでね。ここは絶対に譲らねえッ!!」
 血が足りない、いつ意識が途切れてもおかしくはなかった。だが、カインは立ち塞がる。星がそうさせたのか、彼の目はいまだ輝きを失ってはいなかった。
「いい目してるぜテメエは…ヘドがでらあッ!!」
 稲光にも似た眼光をデズルートの目が放つ。ひしめき合う二つの影は、まだ終わりを見せない。


 突如した声と共に空間に亀裂が生じ、そこから何者かが現れた。漆黒のガウンを纏ったそれは人なのか。否、そうであるはずがない。禍禍しい邪気は光を溜飲する闇そのもの、背筋に悪寒が走るほどの冷たさを放っている。
「なるほど…貴様か」
「な…いったいどこから…! ――ッ!? …あぁ……」
 瞬きする間もなかっただろう。あまりにも唐突で、目に映る光景が何を意味しているのか理解するのに時間を要した。
「父様ぁあッ!!」
「――ッ、お待ち下さいッ!」ガランの悲鳴にメルサイアの思考は弾けるように甦り、同時に駆け縋ろうとする彼女を制していた。
 アルゴルの腕は、王の胸部から背へと一直線に貫いていた。だが、それにもかかわらず血は一滴たりとも流れていない。異常だった。
「――容易いな」
「ッ!? おおあああああああああああッ!!」
 目に映ったままでいうなら、闇がテイロスを包んだ。覆い包む漆黒の闇が取り巻き、そして霧散した。
 消えたのだ。そこにあった存在が、最初からそこになかったかのように、きれいさっぱりなくなってしまっていた。
「あ…ああ…!!」
「お気を確かに! 王は…テイロス様はどうしたのだッ!?」
「見ての通り、消えたよ。部外者は退場願おうか、貴様も消えろ」
 空いた片手がメルサイアに向けられると、彼女は四肢を抗えない力で捕えられた。身一つ動かすことさえできない状態の彼女の身体を闇が浸食する。
「メルッ!」
「――いけませんッ! 来ては…あなたまで巻き込まれかねませんッ! 私は、大丈夫ですから…ガラン様は、御自分の身だけを考えてください…」
 痛みはない、苦痛もない。手足を動かすことができずに、ただ消えて行く感覚。それが、何より気持ち悪かった。
 しかし、やがてその感覚も失せた。泣き濡れたガランの顔が焼き付いたまま、彼女の視界と意識は闇によって断絶だれた。

「――ガラン! 無事かッ!!」
 その時、怒声にもにたエクスティムの声が聞こえた。地下へと駆け下りる彼の足音が聞こえる。
「エクスッ!! …父様が…メルが…!!」
 飛び込むように地下室へ来た彼の目に映ったものは、泣き崩れるガランの姿と、異形の影を持つ存在。生きた存在は二つだけだった。彼の頭で、考えたくもない事実が突き付けられていた。
「どうやら、舞台はととのったようだな…『聖杯』…父の心臓は、我が手中に…」
 血に染まったアルゴルの手には、それの放つ瘴気に覆い隠されて形がハッキリとしない、何かが握られていた。
「それは…いったい…」
 静かだが、食らいつかれれば確実に呑み込まれる。事実、恐怖心に怒りが呑まれそうだった。なんとかそれを抑え、忘れてはならない怒りを冷静に保ちながらエクスティムは訊ねた。
「なんだ、知らぬのか?」それに対して、彼は意外といった風な目をした。
「…『聖杯』だ。この国の王家に名を連ねるのならば、聞いた事があるのではないか? もっとも、我らにとっては同じことだがな…そうか、知らぬのか……」
 笑っているのか、アルゴルは肩を震わせていた。そして次の瞬間、彼の姿はそこから消えていた。速い、という概念ではなく、存在そのモノがそこから消え失せたのだ。

「…力が欲しくないか?」
「――!!」骨まで凍りつくような悪寒がガランを襲った。本当にそうなったのか恐怖心がそうさせるのか、足が動かず振り返ることができない。そうすると、闇に吸いこまれそうだった。
「――キサマ…! ガランから離れろッ!」
 いきり立ったエクスティムは、咄嗟にアルゴルに剣を向けた。それに対してアルゴルは、軽くあしらうように片手を持ち上げ、彼に向けて掌を開けた。
 接触する寸前、光彩が弾けたかと思うと、彼の身体は吹き飛ばされていた。電撃が走ったかのような感覚、手足が完全に麻痺していた。
「脆いな…見たか? このまま我と争えば、あの男はここで果てるだろう。…力だ。欲しくないか? 貴様の守りたいと願うモノ、救える可能性が得られるやもしれんぞ…」
「エクス…やめて…彼を殺さないで…」
 一度に多くのことが心に流れ込んできた。何も考える暇もなく、目の前に晒される光景に、彼女の両頬を涙が伝った。
「我は殺さぬよ。貴様は受け入れるだけでいい。そして、自身の手で終焉へと導いてやるがいい」
 アルゴルは、『聖杯』を握った手をガランの背に突き刺した。吸い込まれるように、彼女の内へとそれは確かに流れていった。
「あ…ぅッ…あああああああああああああッ!!」
 異変はすぐに表れた。突然叫び声を上げたガランは、胸を押さえてその場に蹲った。

(――熱い! 身体が灼けるように熱い!)
 内で何かが暴れている。血が沸騰しそうな勢いで全身を巡る。苦しい、息ができずに心臓が喘ぐ。

 彼女は苦痛の声を上げ続けた。何かが膨張するようで、それを抑えきれずに身体が弾けそうだった。

「ガラン…!! ガランにいったい何をしたあッ!!」
 五体が満足に動かない。エクスティムは這いつくばりながらも、アルゴルを睨みつけて叫んだ。それに彼は、何でもないことを語るように応じた。
「父は云う…世界を創り変えるのだと…我はその代行人。今、この時をもって世界は変貌するのだ。貴様らには、その世界は見せられないのだがな。その代わりに、新世界を創造する『神』の姿を間近で拝むことができる。心して相対するのだ…『神』は、ここに生まれ堕ちる。我の役目はここまでだ。もう、誰にも終末は止められない」
 言い終えるやいなや、アルゴルの姿はその場から消失した。咄嗟に周囲を見渡すが、どこにも彼の存在を感じさせる余韻すら残されていなかった。それは、まるで空気のような存在だった。


「ハッハッハー! どうしたよ? 諦めちまったら、もうお終いなんだぜ? ま、俺様には遊びのようなモンだけどよぉ。もう少し頑張ってみねぇか? なあ、おい」
 限界までボロボロにした玩具を、さらに弄ぶような冷酷な瞳。霞む視界に移る悪鬼は、酷薄な笑みを浮かべていた。
「ざけんな…諦めてたまるかってんだ…!!」
 唾でも吐きかけてやりたい気分だったがそれも叶わず、精一杯に搾り出した声は、自分でも情けないほどに弱々しいモノだった。
「へッ! テメエもここまでだな。それじゃあ、そろそろトドメさしてやるぜ」
 デズルートの掌に光が集束し、輝く球体となる。彼の魔力を寄せ集めたエネルギー弾だ。
 これをくらい、足元から脳髄にかけてヒビが入ったような衝撃が襲ったのだ。まるで鉛のように、全身が重い。
(死ぬな…か…。エクス…オレには、ちと無理メな注文みたいだったな…)

 ―――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…!!

(…なんだ!? 地震…なのか…)
 巨大な縦型のモノだった。まるで大地が恐怖に震え、悶え苦しみ、のた打ち回っているかのような揺れが突然起こった。
「おっと、もたついてる間に始まっちまったか」
 途端にカインに興味をなくしたように、デズルートの殺気が消えた。手を離され、なるがままに地面に崩れたカインは、必死に這いずりながら顔を上げて彼を見上げた。
「殺せよ…」
「あ?」まるでそこに居なかったモノを見るような目で、彼はカインを見た。
「悪ぃな。そろそろ退き時なんだよ。どうせ、ほっといてもテメエは死ぬだろ」
「ふざけんなよ…ッ!」このまま野晒しにされて果てるのが苦痛ではない。だが、最初から相手にされていなかったのか。飽きたら捨てる、玩具のような扱いに対しての恥辱と怒りが込み上げて来た。
「誇り高き騎士様のツモリかしら…死に際に拘るなんて。アンタ、つまらないね」
 イアルトは彼を嘲笑って言った。
「時間なのよ。アルゴル…ワタシたちの仲間がね、用件を済ませたみたいなの。だから、アンタの相手はここまで」
「よ…うけん…? オマエら…何をたくらんで…」
「俺様が知るかよ。まぁ、アルゴルのヤロウが言うには、新たな世界を創るカミさまってのが生まれるらしいぜ」
「解りやすく言うと…これから生まれる世界の創造主、『神』はその例えなのよ…」
(――さっぱりわからないねぇよ…なんなんだ…カミ? 神様のカミだよな…チクショウ…やっぱりわかんねぇ…)
「ま、『神』がなんなのかは、テメエの目で見てみるこったな。俺様はそろそろ退散させてもらうとするぜ。巻き添えはゴメンだからな」
「ソドス、帰りましょう」
 イアルトが合図に手を翳すと、空中で待機していたソドスが彼女のもとへと頭を寄せた。彼女とデズルートが乗ると判ると、翼から起こる暴風に砂塵を巻き上げながら飛翔した。
「そうだわ。ついでよ。ソドス、見せてあげなさい」
「――ッ! や…やめろおッ!!」

 ――ドオオオオオオオオオオオオン!!

 カインの叫びは虚しく響くだけだった。残酷な笑みを浮かべた彼女の命を受けたソドスから放たれた業火球は、爆炎を上げて城の頂上を抉り取っていた。
「アンタの守ろうとしたモノなんて、所詮この程度ってことなのよ。判る? ツマラナイのよ、ワタシにはね」
「ハハハハハ!! バカだよなぁッ! 守るとか、俺様はテメエみたいなのが大ッ嫌いなんだよぉッ!!」
 遥かに遠い点となり、彼らはそのまま飛び去っていった。耳に纏わり付く不快な高笑いだけを残されたカインは、炎の朱に染まる夜空を仰ぎ、涙を流した。
「なんなんだよ…チクショウ…クソッタレがああああッ!!!」
 いったい何の理由があってこの国は、自分たちはこんな目に遭っているのか。
 それすらも解らず死ぬのかと思うと、居た堪れないのと同時に、諦めにも似た感情がやってきた。
「エクス…ガラン…メル…生きてるか……生きてくれよ…オレは…もうダメみたいだ…」
 空の闇が酷く澄んでいるように見えた。この空の下なら悪くないかもしれない。すんなりと滅びの中へ自分を受け入れてくれそうで、安心できる綺麗な夜空だった。
 滅び逝く一瞬、それが万物が共有して持つ一番美しい瞬間だというのは、あながち嘘ではないのかもしれない。
 瞼を下ろすと同じような闇が広がった。夜空で一つ、星が流れた。


 頭上で爆音が聞こえ、振動が地下を揺らした。パラパラと砂埃が天井から零れ落ち、いまにも崩れそうな危険な状態だった。
「く…ガラン…待っていろ…すぐに…行く…」
 カミ…父…アルゴルの言うことは何一つとして理解できず、エクスティムの疑問は深まるばかりだった。しかし、彼にはそんなことは、もはやどうでもよいことだった。今しなければならないことは、奴の言葉の意味を考えることではない。
 痺れが残る身体で立ち上がり、彼はふらつきながらも蹲るガランの元へ歩み寄ろうとした。その距離が酷く長い気がした。
 やっとの思いで彼女の元に辿りついた彼は、崩れるように膝を付いて倒れるように覆い被さり、彼女の身体を抱き締めた。
「エクス…! わたしから離れて…何か…何かが弾けようとしている…ッ!」
「ハハ…つれないな…だが、ダメだ…絶対に離さないぞ…」
 苦痛に涙を流しながら訴えるが、彼女の意志を無視して彼は抱く力をいっそう強くした。
「守ってやると言っただろう。守ってやるさ…死んでも守ってやる…」
「わたしのことはいいのです…まだ城には民たちが残っています…彼らを優先してください…貴方は王なのですよ…」
 彼の胸は暖かい。何故だか、苦しみが和らいだ気がした。ただそれだけで充分だった。
「断る」
「エクス!」彼女は彼を離そうとと身をよじったが、彼の力のほうが強かった。
「判っている…判っているさ…失うよりも、失わないほうが良いに決まっている…だが、選択肢が限られた状況で、必ず何かを失わなければならないとするのなら…他の全てを失ってもいい…俺はお前を選ぶ…絶対にだ」
「何故…わたし一人のことで、民を見捨てるというのですか…!?」
「そうだ…やはり、俺は失格だな…」自嘲気味に言うと、ふいに彼は身を引いた。
 ふっきれたような、なんのしがらみも感じられなかった。彼は微笑んでいた。こんな顔は初めてかもしれない。そうしてもう一度、彼は彼女を引き寄せた。
「愛する者を失うことほど、深く、辛い悲しみはない…少なくとも、俺はそう思う。だから…お前を選ぶ。お前だけは…俺の腕の中で守り通すと決めた…!!」
 彼は何も迷っていなかった。彼の全身から伝わる生きた暖かさが、身体の芯を熱く滲ませる。とめどなく零れる涙に濡れながら、ガランは諦めて彼の背を力の限り抱いた。

(――離れたくない…)

 ドン、天井の一部が崩れ、砕ける音が聞こえた。ここは、もう長くはもたない。
「逃げよう…まだ死にたくないからな。子供の顔も見たいだろ?」
 彼女は彼の胸で頷いた。
 生きるのだ。彼さえいれば、何処にでも行ける。生きていける。
 彼は守ってくれるだろう。何があっても、わたしたちを守ってくれる。その厚い手の平で包んでくれる。

 ――ドクン…ッ!!

「――!?」彼に手を引かれて立ち上がろうとした瞬間、彼女の中で何かが動いた。
「エクス…ッ!!」
 体が引き裂かれるような熱さ。肺に被る熱気、視界は暗転し、そのまま自分はうつ伏せに倒れ込んだ。


 ――ここはどこなのか、まるで大海を漂っているような浮遊感。細胞一つ一つに浸透する暖かさは、母の腕の中、赤子のときの記憶が甦るような錯覚に陥りそうだった。
『――俺を誰だと思っている…』
 黄金の粒子が溢れる空間が、まるで漆黒の網を投げたかのような、どす黒い瘴気に包まれた。
「う…っ! あ…誰…なの…?」
 まるで、心臓を鷲掴みにされたかのような息苦しさが襲った。言い知れぬ恐怖が喉の奥で絡まっている。

 ――ガラン!!

「!? エクス…!!」
 どこからか、彼の声が聞こえた。姿こそ見えないが、間違いなく彼は近くにいる。
「エクス! どこ…何処にいるのですか!?」
 存在を確かに感じるのに、彼の姿は何処にもなかった。焦燥感だけが募り、不安で押し潰されそうになる。
『――殺せ』
「え? な…なんなの…身体が……動かない…」
 恐怖など感情的なものではなく、身体が震えだした。内から何かが突き上げるような衝動が…
 はっきりと判る。このままでは、自分は彼を……!!
「エクスッ!! いけない…!! このままでは…いけないッ!!」

 うつ伏せに倒れたガランの身体が痙攣するように大きく跳ねたかと思うと、彼女は落ちることなく宙に浮かび、ゆっくりと上昇し始めた。触れようとすると、それを拒絶する障壁が阻み、指先がチリチリと痛んだ。
「シロ…どういうことだ! ガランはどうしたというんだ!? なんとかならないのかッ!!」
『ああ! うっさいうっさい!! ギャアギャア喚くんやない! ワイにかて、知らんことの一つや二つあるわいッ!!』
「クソ…ッ!! いったいあの男はガランの中に何を…そうだ! ガランの中にある何らかの異物を、『白』の力で消し去れば…」
『あかん。そら無理や』
「シロ!!」
『ヒヨッコは黙っとれッ!』シロは無理矢理捻じ伏せるかのごとく怒声を張り上げた。
『ええか。たしか『聖杯』言うとったな…アレの力は尋常やないんや。ワイが全開でも、相殺できるかどうか、下手すればこっちが消える。『同化』もせん状態でそんなことしたら、まずそれは確実や。アオリを食らってオマエも消えてまうこと請け合いや』
「それでも構わないッ! ガランを救えるのなら、可能性があるなら俺はそこにこの命を懸けるッ!」
『ハン…まあ、オマエやったらまずそう言うやろな。そんなことは百も承知しとる。せやけどな、オマエ、ワイが『黒』に力抑えられとるの忘れとるやろ?』
「あ…!」シロの言葉に、エクスティムは絶句した。「判ったやろ」と、シロの冷静な目が彼を突き刺した。
『無理なんや。何者かは知らんが、全て計算されとるみたいやないか…タチ悪いでホンマに…、最悪やないか…』
 目の前に居るのに手が出せない。守れない。
 ガランの身体が宙でもう一度跳ねた。外へ漏れ出そうとしている何かが、早く外へ出ようともがいているのが判る。
 本能的なモノなのか、エクスティムは知らずに一歩退いていた。彼はそれに気が付くと、悔しさと情けなさに歯噛みした。
「くそ…だが…手をこまねいて見ているだけなんてマッピラだ! 俺は守るんだ!!」
『喚くだけなら誰にでもデキルことや。何か算段があるんなら別やがな…』
「あるさ…ここで、俺はオマエと『同化』する!!」
『ンな…! アホぬかせッ! オマエはヒヨッコやから、こうしてワイがついとるんやろうが!! もし、ここで『同化』を果たそうとしたら、ワイの力全てを受け入れきれずにオマエは…! ――!?』
 シロはそこまで言い、エクスティムを恐ろしいモノを見るような目で凝視した。
『まさか…オマエ、失敗を利用する気か…ワイの意識のタガを外して…『白』の力全てをオマエの身に預けて…』
 わななく声でシロは一言一言を続けた。彼がもういいと頷くと、シロは逆上して叫んでいた。
『あかんッ! ほんなら何のために…ワイはオマエに付き従っとったんやッ!! ワイはオマエをイッパシにするために…ッ!!』
「俺はお前の主だ。命令に従ってもらうぞ。それに、消えると決まったわけじゃない。成功するかもしれないだろう?」
『ウソやろ…エクス……』
「嘘じゃないさ。頼んだぞ、シロ…俺を嘘吐きにしてくれるな」
『…あぁ…クソが…! 判った…了解や…クソ主ッ!』
 拘りも、思いも断ち切るかのように、シロは胸の支えと一緒に言葉を吐き捨てた。
「感謝する。始めるぞ…」
 ガランの身体が三度目の鼓動を打った。地下の壁に一線の亀裂が走った。地下が崩れ様としている。時間は残り少ない。
「――『白の紋章』が秘めたる白き力、汝の主の名は、エクスティム・ドーク。俺にその力の全てを委ねてくれ…『白』の解放は、主との『同化』において果たされる…!!」
『…ええやろう。ワイはいまから、エクスの一部となる。せやけども、主の力量が『白』を有するに相応しくないその時は…力は容赦無くオマエを無尽の光の中へ消滅させる…依存は、もちろんないやろな?』
「ああ」彼はキッパリと言い切り頷いた。が、「いや、待て。もしものために言っておきたい。今の主が死ねば、お前はまた、次の主を見つけるために眠りにつくんだったな?」
『なんや、ヤブカラボウに…。ああそうや、主無くしてワイは有り得へん。ケッタクソ悪いことやがな…』
「じゃあ、覚えておいてくれないか。もし、その眠りが浅く、目覚めが早かったなら、その時にガランたちが生きていたら…見つけてやってくれないか。俺に代わって守って欲しい…」
『何を言い出すかと思ったら…無理やで。眠っとる内に、ワイの記憶は白紙になる…オマエのことは、忘れとるやろうな…』
「…俺のことは忘れても構わない。俺の心だけ預かっていてくれればいい。守ってくれ…俺の愛する者たちを…」
『ふん! 覚えてたらな。さあ、とっとと始めるんやったら始めようやないか! グダグダしてんのは嫌いなんや!!』
「…ああ、すまなかった。――始めよう」
 ふっと身体が軽くなった。内でシロの存在が希薄になり、やがて消えた。
 始めに一滴の水が滴り落ち、やがてそれは大きな激流となり彼の中で渦を巻き出した。滅茶苦茶に掻き回される感覚、堪えて深く息を吸い、ガランを見据えた。
「…一瞬でいい。俺に服従しろ。白の力、俺のモノとなれ…あいつを救ってやってくれ…ッ!」


「エクス…いったい何をしているの!? いや…そんな…貴方は……」
 胸を押し潰されそうな不安が、早鐘の心臓を突いていた。 彼のしようとしていることが判る。意識が見えない彼の姿を捕えていた。
『――『白』か。面白い』
「――! また…貴方は誰!? さっきから、何処に居るのですか!?」
『ふふ…俺は、さっきからお前の側に居るが? そもそも、ここは俺の中なのだよ。何処ではない、ここが俺だ』
「え?」不意を付かれてガランは言葉を無くした。
『希望、望みは希薄である。薄皮に守られた希望など、俺が断ってやろう。お前の肉体でな…』
「な…何を言ってるの…? わたしは…わたしは……。――あ…ッ!!」
 気が付くと、蜘蛛の巣のような暗黒の触手に自分は嵌っていた。
 いやだ。いやだいやだいやだ。何かが自分を塗り潰そうとしている。自分が自分で無くなる、自分という存在の一纏まりの糸が解れていくようだ。
 流れていく、目の前の光景が、己の身体がが、感覚が、感情が、全てが。
『――さあ、終末の始まりだ』


 遠く離れた山の頂きで、漆黒のガウンを纏う闇と同化した存在がそれを見ていた。
 影すら落とさぬその存在は、確かに笑った。心の底から、美しいモノを見た時、万人が共有して持つであろう純粋な笑み。その光景の壮大さに、彼の身体は喜びと感動に震えていた。
「美しい…。これが、神…!!」


 その時、遍く降り注ぐ光によって、世界は黄金色に染められた。
 その光が何を意味しているのか、その時誰も知る由もなかった。
 だが、そこから確実に変化は訪れていた。
 突然変異する動植物、それは人も例外ではなかった。
 世界の均衡は少しずつ蝕まれ、星を侵す存在としてそれらは恐れられた。
 『魔族』、かつての共生者たちは、いつしかそう呼ばれるようになった。
 そして、永い時が過ぎ去った現在において、その因果は忘れ去られることとなる。
 緩やかではあるが決して停滞しない、確実に変化する世界の未来は終末を目指すのだった――


 目が覚めの時に感じたのは、微かな緑の薫りを含む微風に頬を撫でられるものだった。
 だが、それは記憶が呼び覚ました偽物であることに気付く。
 瞼の外には蒼褪めた空が、ただ…ただ雄大に身を広げる蒼い空があった。
 だが、その下にいつもあった緑はなかった。
 全てが、消失した無限の荒野へなりかわっていた。

 奪われた。それとも自分が奪ったのか。答えは記憶が告げていた。脳裡に焼き付いた映像が告げていた。
 嘘であって欲しい。夢であって欲しい。何度も瞼を閉じて目の前の光景が変わるのを望んだ。
 何も変わらかった。誰もいなかった。独りだった。彼もいてくれなかった。

 ――愛する者を失うことほど、深く辛い悲しみはない…

 甦る彼の言葉は痛く心を締めつけた。そして呪った。消失感にとめどなく涙が溢れた。

(――ならば…わたしは…いったいどうすればいいのですか…全てを失い、全てを奪ったわたしは…)

 彼女の懺悔するかのような嗚咽、慟哭を受け止めてくれるモノはどこにもなかった。

 その時だった。微かな喘ぐようなか細い声が聞こえた。ここに居ると伝えようとしているような、生きた存在の声が。
 縋るような気持ちで声のする方へ向かうと、赤子がいた。青い髪の女の子。自分が幼い頃に似ていると思った。
 そして、何よりその瞳に釘付けになった。似ていた。似過ぎるほどに純粋な空色、その娘の瞳は彼の持つ空色だった。
 まさかとは思った。もし、そうであるのなら、自分は生きなければならない。もしも、この娘が彼と自分を繋ぎとめる唯一の証ならば…

 あまりにも憔悴しきっていて、どんな情けない顔をしていたのだろう。
 戸惑ったように瞳を左右に泳がせた後、その娘は慰めるように笑いかけてくれた。
 全てを奪い、壊した罪人に対するその笑顔に、再び涙が溢れた。
 汚い自分、呪われた自分、向けられる純粋な優しさをたたえているその微笑みは、何よりも辛い仕打ちに思えた。
 両腕で強く抱き締めた。愛しかった。まだ愛しいと想える者がここにいた。生きた温もりが何より愛しすぎた。
 愛せる存在を見つけた喜びと、生きなければならない苦しみが入り混じり、声にもならない。
 わたしは、この地に縛り付けられるのだ。この娘という縛鎖によって、生き抜かねばならないのだ――


――歯車は時を刻む――

――終末を告げるべく、廻り続ける――

――運命に絡みとられた欠片たちが呑み込まれる――

――歯車は廻る、欠片は交わる、運命は動く――

――神の下に欠片が集まりし時、全ては動く――

――今はただ、その螺旋の中に身を委ねながら、時を待つのみ――

――歯車の小さな欠片、だが欠けてはならない儚き希望――

――物語は、ここより始まる――




〜後書き〜
プロローグ其の三終了、前後編は無理があったのか、いつもより量が多いです。
いったい何がどうなってるのか、伏線の多い話でした。というか、謎だらけで読者の方には理解できない部分が大半だろうなーと、申し訳ない気持ちで一杯です(おい)。
おいおい解明できたらいいなぁ、というか解明させねばならないですね。それは切に思っております。それまでご辛抱して付き合っていただけたら嬉しいです。
謎の一つとして、「シロ」が誰なのかは、たいていの方は判ると思います。あの口調はあいつしかいないですね。
物語の根幹に深く関わってるのは、実はそっちの方でした。

次はついに本編始動、成長したチビたちから始まります。
では、また次回にお会いしましょう。そひでは!(座礼)


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