――大好きな人がいます

――大切な人がいます

――傍に居たい人がいます

――その人の隣は、あたしの居場所でした

――守ってくれるのは嬉しいんです

――けれど、あたしの居場所を奪わないで下さい

――大切だからこそ、傍に居たいんです

――あなたの傍に居続けられるその日まで

――とても、素直に想えた人…


『DEAR FRIEND』
〜後編〜



「う……」
 仁がその場を立ち去って程なくして、微かな呻き声を上げ、菖蒲は目を擦りながら起き上がった。
「仁兄?」
 一度首を巡らして見たが菖蒲の目の届く範囲に、仁の姿はどこにもなかった。
 ヒュウゥゥ…、不意に冷たい夜風が身体を撫でた。身を震わせて両腕で身体を包むように抱いた。胸騒ぎがする、とても嫌な寒さだった。
「どこに行ったのよ…」
 トイレにでも行っただけかもしれないし、目が冴えて散歩にでも行ったのかもしれない。自分の考え過ぎ、思い過ごしだろうか。菖蒲は一頻り考えて首を横に振った。

 お互いに両親はいなくて、孤児院の出だった。どちらから声を掛けたとか、出逢いのきっかけは良く覚えていない。物心つく頃には、彼の背中ばかり追いかけていたような気がする。周囲からは、よく「まるで、兄妹みたいね」と言われていた。そう言われることが、彼女の自慢だった。
 本当にそう思っていた。お互いのことを、よく話した。仁は、自分のお喋りにも、我侭にも、笑って応えてくれる、優しくて大好きな兄だった。一人では埋められない寂しさを埋めてくれる、掛け替えのない存在。
 『ハンター』、いつからか、仁はその言葉を口にするようになっていた。何か、漠然とした強さへの憧れ。同年の男の子たちは、一度はそんな夢を見てみるモノだと、誰かから聞いた記憶がある。理解できないわけではない。だが、無理にそれを得る必要があるのかと、いつも思っていた。
 『聖具』、その力を仁が持っていると知った時の、言いようのない淋しのような、悲しさのような、置いていかれたような感情は、いまでも、はっきりと覚えている。秘密ごとの無いはずの二人が、相手に一つ秘密を持たれてしまったみたいで、居心地が悪かった。
 いつからだっただろうか。仁が、自分に対して大人びた態度をとるようになったのは。自分ではどうしようもなく、成長するにつれて、身長のようにお互いの距離は遠くなったような気がする。こちらが背伸びしないと、あの日のように肩を並べられない。
 離れるよりも、ずっと一緒の方が良いに決まっているのに。聞き分けのない子供、自分はまだ幼いと十分に自覚している。なまじ一緒だった分、目に見えて判るその差がもどかしかった。
 もうそんな年じゃないと、繋いだ手を初めて離したのはいつだっただろうか。

 菖蒲は心細さで胸が締め付けられ、どうしても拭い切れない予感にいてもたってもいられなくなった。
 躊躇ったのは最初だけで、そこだけ別個の意志を持っているかのように、足が自然と動いていた。


 全長3,4メートル当たりか、人間では到達できない大きさなことは確かだ。足の鋭い爪は、大人の二の腕ほどの太さがある。ライオンに似た顔立ちに、ギラギラと殺気立つ紅の瞳、本来ならば尾があるはずの部位には、蛇に酷似した生物が蠢いていた。
「合成獣…俗にいう『キマイラ』というやつですか…それにしても、大きいですね…」
 しばらく進むと、大きく拓けた広場のような場所に辿り着いた。その手前の木の陰に身を潜め、仁は発見した魔獣の様子を窺っていた。おそらく、この山の動物らはコイツに食い荒らされたのだろうか。もし、そうであるなら、この静かな状況は理解できる。
 しかし、これでいよいよもって事態は深刻になってきた。どこから来たのかは知らないが、この山に魔獣がいる。生物である以上、次に出る行動を予想はできても、それを断言することはできない。換言すれば、次にどう動くか判断がつかない。人里におりる可能性も、もちろんある。
「これは、ボク一人では手におえませんね… 一旦引き上げてギルドに応援を要請しましょうか…」
 見ているだけでも背筋が凍りつくような威圧感が、嫌というほど仁に圧し掛かっていた。見ているだけでこの恐怖、まだまだ経験不足だということを思い知らされたような気がした。
 アヤメを起こして下山するか。夜で月明かりだけでは視界は悪いだろうが、行きに通った山道を辿ればなんとかなるだろう。焦燥感を押し殺しながらも、早くその場を立ち去ろうと仁は細心の注意を払いながら足を動かそうとした。
 が、魔物に一歩退くため踵を返そうとした瞬間、生温かいような、形容し難い嫌な空気の流れが彼の背に触れた。全身が痺れ硬直したようで、うまく動かせなかったが、それでも恐る恐る振り返る。
(――ッ!! まずいッ!!)
 紅の瞳の奥に秘められた、殺気に満ちた眼光に網膜を居抜かれ、仁の呼吸が止まった。まるで、心臓を鷲掴みにされたようだ。恐ろしい、怖い。純粋に、その感情しか心にはなかった。足が竦んで動けなかった。
 どうやら、相手は素知らぬ振りをしていたようだ。初めからこちらの存在に気付いていた。自分は言わば相手の縄張りに足を踏み入れた侵入者。もし縄張り意識が強い生物なら、それに気付かぬはずがない。もしかしたら、この山全体がすでにこいつの縄張りと化していたのかもしれない。
 こうなってしまっては、勝者と敗者は明らかだった。野生の掟と言う訳ではないが、こういう場において、敗者の末路は決まっている。死だ。
「仁兄ィッ!!」
 不意に腰の当たりに横殴りの衝撃が襲った。転がり込むように地面に倒れ、一瞬意識が飛ぶ。何度か瞬きして、次第に正気が戻ってくる。
「何やってるのよ!!」
「あ、アヤメ…」
 仰向けに倒れた仁の上には、菖蒲が乗り掛かっていた。自分を押し倒し、魔物の一撃から救ってくれたのは、どうやら彼女のようだった。
 運良く茂みに飛び込んだようで、巧く姿は隠せているようだ。こちらの姿を探すように、魔物は近くを徘徊している。
「…泣いているんですか?」
「え? あ…ち、違う! そんなんじゃ――!!」
「静かに」と、仁の手が菖蒲の口にあてられる。彼女が頷いたのを確認し、ゆっくりと手を離した。
 暗がりでよく見えなかったが、怒ったような彼女の瞳は濡れていたように思う。口振りから嘘をついているのは間違い無いだろう。だが、仁は、あえてそれ以上の追求はしなかった。
「助けてくれて感謝します。…早くどいてくれませんか?」
「あ、ごめん…」
 自分たちの形に初めて気付いたようで、菖蒲はしおらしく彼から離れた。彼女にしては珍しい行為だった。
 姿を見せぬよう低く身を起こした仁は、そこで初めてさっきまで自分が隠れていた木の幹に刻まれた深い爪痕を目の当たりにした。一撃を受ければ、致命傷は免れないだろう。
「仁兄…どう、するの?」
 さっきは助けることに無我夢中だったが、すぐに恐怖感が募り始めたのだろう。コートの裾を掴んでいる力が強まるのを感じ、仁は彼女の手に自分の手を重ねた。
「大丈夫です。何とかして見せます」
 安心させようと笑ったつもりだったが、上手く出来たかどうかは判らない。それが彼女に通用したかどうかも判らないかったが、裾を掴む彼女の力は一層強まっていた。やがて、俯いた彼女の口から言葉が洩れ始めた。
「…信じるからね。手、離すからね。本当は離したくない…けど。離すからね」
 彼女が震えているのは恐怖からか、それとも不安からなのか、仁は困惑した目で彼女を見つめていた。
「目、覚ましたら仁兄いなくなってて、不安で…心細くって…とにかく一人は嫌だったから…あたしたち、いつも一緒だよ? 離すけど、ちゃんと戻って来るんだよ」
 色々な感情が入り混じって不鮮明な瞳、ただそこから感じる確かなことは、彼女が『恐れている』ということだった。他にもまだ色々なことを訴えかけているように思えたが、仁にはそれしか判らなかった。
 菖蒲を握る手に力をこめる。彼女の体は一度、ピクリと弾かれたように震えて止まった。
「そうですね。ボクたちは、いつも一緒です。それは、これからも変わりません」
 菖蒲の手が、そっと彼のコートから離された。仁は腰に携帯していた彼の武器である聖具に手を掛けた。力を集中させ、それを手頃な大きさに戻す。彼の手には、柄に赤い水晶が填め込まれた一見何の変哲も無い鞭がしっかりと握られていた。
 本当は全身が震えて、一歩進むこともままならなかった。怖い、情けないほどに自分が怯えているのが判る。心臓が破裂するのではないかと思うほど、その鼓動が耳についていた。
 だが、退くわけにはいかない。彼女は自分に命を預けてくれた。自分はそれに応えなければならない。守らなくては、いけない。
 ザッ。わざと大きな音を立て、地を蹴り駆け出す。すぐさま魔物の殺気が突き刺すように彼を襲った。
「遠慮はしませんよ…」
 走りながら仁は内ポケットを探り出す。そこから出てきたのは、彼の掌に収まる程の数個の小石だった。
「ゴオオオオオォッ!!!」
 雄叫びを上げた魔物が仁に飛び掛る。静かなせいか、うるさいほどに耳に入ってくる。相手の速さに負けぬ反応で、彼はその小石を魔物の鼻先に投げつけた。
「――発動ッ!!」
 仁が一喝し、小石にかけられていた能力を解いた。縮小化されていた『小石』は膨張するように膨らみ、瞬時に巨大な岩石へと形状を変えた。この状況では避け様が無い。魔物は正面からぶつかる事になる。が、
 ――ドゴオッ!!
 どんな丈夫な体、もしくは硬い牙を持っているのか。臆することなく魔物は仁の放った岩石を砕き、彼に猛然と牙を向いてきた。
「――く…ッ!! 悔しいですね…それなりの切り札だったんですが…」
 だが、それなりにダメージはあったようで、魔物は頭から僅かに血を流していた。動きも若干鈍っていたおかげで、仁は飛び退きなんとか交わすことが出来た。同時に右腕を振り上げ鞭を振るうが、あえなく空振りに終わる。
「グルウウウウウウゥ…」
 魔物は、態勢を低くして喉の奥から唸り越えを上げる。仁の攻撃を受けて刺激されたのか、目は怒り、牙を剥き出しにしている。
「血が上りすぎるといけませんよ…」
 平静を保つために、いつもは言わないような軽口を言ってみたが、嫌な汗は流れる一方だ。
 仕方ない。仁は何かを決意したように鞭を腰に掛け、代わりに一本の短剣を取り出した。腰を落として構え、キッと魔物を睨み据える。張り詰めた緊張にうまく呼吸ができない。
「来いッ!!」
 仁が叫んだのを合図に、魔物は両眼をカッと見開いて彼に躍り掛かった。両肩に魔物の爪が食い込み、更に体重が加えられ激痛が走る。
 前足に両肩を押さえつけられたまま、仁は背後の大木に思いきり叩きつけられ、磔にされた。すぐ目の前に、大きく避けた口を開けた魔物の顔が迫った。真っ赤な口からは鼻を突く嫌な臭いがして、顔を顰めた。
 なんとか手首だけを動かし、握った短剣で魔物の腕を掠める。グゥ、と唸る魔物の前足の束縛が一瞬緩む。仁はその一瞬を逃さずに、ずり落ちるように背を滑らせコートを脱ぎ捨て自由を得た。すぐにいきり立った魔物が食いつこうと彼に迫る。
 別の所には全く意識を回さず、魔物の口だけを見据える。牙を突き立てようと口を開けたその瞬間、短剣を縦に握り、右腕を魔物の口に突っ込む。噛み付き口を閉じるその刹那、『短剣』に掛けていた能力を解く。
 ザシュッ、『短剣』の刃は一瞬にして大人の身長分くらいある長さに伸び、魔物の口を貫き地面に突き刺さった。つっかえ棒のような感じになり、大口を開けたまま魔物はその場で怒り狂って暴れている。
「はぁ…はぁ…これで、仕上げです」
 腰の鞭を再度手に取り魔物に向かって振るう。その長さは見る見るうちに伸び、魔物の全身を絡め取り、あっという間に縛り上げた。抵抗しようと暴れるが、一度絡みつけばその戒めはそう簡単には解けなかった。
「『リトルウェイブ』…発動ッ!!」
 彼は握った鞭の柄から魔力を注ぎ、魔物に対して『能力』を発動させた。魔力が魔物を縛る鞭を伝導し、その効果を現すまで実際そう時間はかからなかったが、ひどく長い時間のように感じた。
「猛獣もサイズが変われば、まだ可愛げがありますね…」
 手の平サイズよりも更に小さくなってしまった魔物を仁は摘み上げ、懐から取り出した厚みのあるガラスビンの中へ放り込んだ。こんなところには珍し過ぎる魔物だ、何らかの裏があるのかもしれない。そんな根拠のない勘のようなモノからの行動だった。
 あとはギルドに任せよう、これ以上の詮索は依頼外だ。ビンに栓をして懐に戻した所で、途端に緊張感が解けて、どっと息が洩れた。


 油断、そう言ってしまえばそれだけのことだが、取り返しの付かない油断というモノだって、もちろんある。間違い無く、それは後者のモノだった。
 一人でこの大物を倒した事に、正直浮かれていたのだろう。自分はこれほど力があるのだと証明できた気がして、後から嬉しさが込み上げてきた。今はそれが酷く滑稽に思えたが、当時はそのことが、この上なく誇らしく思えていた。
 そんな誇らしい気持ちは、蝋燭の火のようにあっさりと掻き消されることになった。ボクの迎えた菖蒲の顔は想像とは正反対で、血の気が引き、苦痛に歪んでいるモノだった。
「あ…仁兄…」
 木にぐったりと背を預けていた菖蒲は、仁に気付くと微かに口元を和らげた。呆然と立ち尽くしていた仁は、その微笑に我を取り戻した。
「どうしたんですか!?」
 脇腹を押さえる菖蒲の手の下からは血が滲んでいる。駆け寄って彼女の手を掴むと、手の平にはベットリと赤い血が付いていた。
 何かの冗談か、そんな顔をして視線を向ける仁に、菖蒲は嫌なモノを見られたかのような顔で視線を反らしていた。
「失礼しますよ…」
 微かな抵抗があったが、菖蒲にはそこまでするほどの力は残っていなかった。彼女の服の裾を捲り上げると、日に焼けていない白い肌に赤い爪痕が深く刻まれている。
「アヤメ…」
「ハハ…我慢…してたんだけどね…」
 菖蒲は、悪戯が見つかった子供のように、バツの悪そうに微笑んで言った。
「一体いつ――!! まさか…」
 最初に自分を助けた時に? そうに違いない。その時としか考えられない。
「ボクのせいで…」
 自分が不甲斐なく、愚かだった。守るなんて言っておきながら、最初から守れていなかったなんて、バカなのにも程がある。魔物を倒した事に、子供のように喜んでいた少し前の自分が、恐ろしく残酷に思えた。
「違う…違うよ… 仁兄のせいじゃ…ないよ…」
「どうして黙っていたんだッ!!」
 自分を責めずに微笑む彼女が腹立たしくて、思わず怒鳴ってしまった。なんとか落ち着こうと、何度か肩を上下させる。焦って良いことなど一つも無い。
「だって…あたし、足手まといだし…これ以上…迷惑かけたくないから…」
「そんなこと…」
 いつもは我侭でボクを振り回している癖に、こんな時だけそんな事を言わなくてもいいじゃないか。迷惑なら、今まででも十分にかけられ慣れている。
「もう…ダメかな…自業自得だよ…ね…」
 菖蒲の目は朦朧としており、焦点が定まっていなかった。表情も微笑を保つというより、もう変える力もロクに無いという方に近かった。
「バカを言うな! いつも一緒って言ったばかりじゃないかッ!」
 肩が痛むがそんなことには構っていられない。次第にそんな痛みを忘れるほど形振り構っていなかった。気休め程度の応急処置を施し、仁は菖蒲を背負って山道を下り始めた。山奥に医者などいるはずも無い。とにかく町に出なければ話になら無い。
 急ぎ過ぎても傷に触り、かといってのんびりとしていられない。事は一刻を争うというのに、状況は最悪だった。
「諦めてたまるか…」
 もう助からない。そんな思いは必死で振り払っていた。その行為は、単なる悪足掻きに過ぎなかったのかもしれない。だが、諦めきれなかった。諦めれば、そこで終わってしまう。誰かが信じている限り可能性はゼロにはならない。そう信じて、仁はひたすら足を動かしていた。時折、咎めるような菖蒲の視線を感じたが、構わず足を進めた。
「仁兄…」
 それまでされるがままに負ぶさっていた菖蒲が、弱々しく口を開いた。
「喋らないで下さい」
「お願い…聞いて…」
 泣き出しそうな声だった。仁は黙って足を進めた。
「守りたい人…いるって、言ったよね…」
 構わず菖蒲は、押し出すように言葉を紡いだ。唇を噛み締め、仁は黙って足を進める。
「その…守りたい人、守りなよ…あたしだったら…大切にされないの…嫌よ…」
 乱暴に息を吐き、とうとう我慢し切れなくなったように、仁は口を開き、早口に言った。
「じゃあ、大人しく黙っていて下さい…ボクに世話を焼かせずに、守られていて下さい」
「え…?」
「守りたいんだ…いつも一緒だから…菖蒲は、親友だから」
 友人、と言えば軽く聞こえそうだった。兄妹、これは近いかもしれないが、少し違う気がした。血が繋がっていないとか、そういったことは関係無しにして。
 何故か、これが二人の関係を表すのに合っていると思った。仁は声になら無いような声で最後に付け加えた。それでも、菖蒲の耳にはしっかりとその言葉は聞こえていた。
「…そう、だったんだ…」
 なんだ…そうだったんだ… 心配して、損したかな… でも…少しだけ、ひどいかな…仁兄…
「……うん、そうだよね…あたしたち…親友だよね…」
 その時、菖蒲の瞳からは耐えかねたかのような涙が溢れ出ていた。多くの嬉しさと安堵と、少しの淋しさを含んだ、熱い涙が。
「仁兄…」
 とん、と仁の背中に濡れた顔を押し当て菖蒲は囁くように言った。
「――大好きだよ…」
 ふっと仁の背に重みが掛かる。だが、彼は何故か背中が軽くなった気がした。それは、きっと彼女の命の重さだったのだろう。まるで眠ってしまったかのように、その感触は静かで、安らかだった。
 その言葉を最後に、菖蒲は二度と目を開けることはありませんでした。ボクの背に温もりを残したまま、彼女は…死んでしまった…


 サアアァァァ… サアアァァァ…
 窓を打ちつける雨粒の規則的な音が部屋を支配している。昨日から降り続けている雨。梅雨はとっくに過ぎたはずなのに、まるで、いつまでも降り続けるのではないかと思うほど空は灰色で、重く圧し掛かってきそうだった。
 部屋の中にあるモノ全てが、何か一つ色を塗り忘れたかのように見えて不自然だった。飽きもせずに天井の一点をじっと睨み続けている色素の薄い灰色の瞳も、今はどこか褪せていた。

 依頼の報告を済ませた仁は、そのギルドの片隅で濡れた身体を底に沈めるように、座り込んだままじっと考えこむように顔を俯けていた。
 受付の窓口から担当の男はそんな彼をしばらく眺め、少し躊躇った後、声を掛けるべく口を開いた。
「…君が捕獲した魔物は、こちらで処分を預からせてもらうことになった。報酬は後日受け渡すから、忘れないように」
「……」
 男は事務的な口調で仁に言った。仁は応えず黙っている。男はイラついたような、やり切れない苦い顔をして、
「俺は君のことを…よくは知らないが、いつまでも下を向いてるもんじゃないぞ…」
 哀れむようにそう言って男は嘆息した。こういうパターンは、そう頻繁に起こるわけではないが、少ないかと問われれば首を縦には振れないだろう。そういうモノだと、男は割り切った考えを持っている側の人間だった。
 見ていられなくなり視線を別に向けた時、男は驚いて息を飲んだ。
「あ、長…」
 思わぬ人物の来訪に、男は顔を緊張させた。そこには、いかにもといった風の初老の男――ギルド長がいた。一度視線で言葉を交わすと、軽い会釈をして男は奥へと引っ込んだ。二人きりになったところで、長は仁の前まで歩み寄り言葉を掛けた。
「大切な人を亡くしたそうだな」
 抑揚のない、冷静な声だった。
「…ええ」
 そこでやっと仁は視線を上げて長の顔を見た。声に感じたモノより、瞳は穏やかだった。あえてそういう口調にしているのかもしれない。特に哀れむわけでも無く、叱咤をしようという訳でも無い。どこか達観したような、色々なモノを見て経験してきた人が時折見せる特有の顔だった。
「いつまで、そうしているつもりだ?」
「……」
「命のやり取りは、お前の知らないところで行われておる。お前が、大切なモノを失ったことは、何も特別なことではないぞ…」
「…違う…ッ!!」
 仁は噛み潰すかのように、初めて感情を声に出した。そう言ったが、後に言葉が続かなかった。
 他人から見れば単純なことかもしれない。広い世の中で誰が死のうが、少なくとも自分に関わってこない分には感慨は涌いて来ないだろう。人が死ぬと言う事は、幼い時から何度と無く聞いている。それを情報として何気なく受け入れていた。人の死は、日常で当たり前のように行われている営みの一つ。気付かないうちに、誰もが割り切っているのかもしれない。そういうモノなのかもしれないと思った時だってある。
「…アヤメは…ボクにとって特別だった…ッ!!」
 何度か喉を苦しげに動かし、仁はようやく、その言葉だけを搾り出した。
 そうだ、菖蒲は違う。ボクにとって重要だった。大切だった。そう、特別だったんだ。共に笑って過ごしたり、喧嘩もしたり… 失ったモノは、あまりにも多く、あまりにも大き過ぎた。
「悲観に甘えるのは少しの間だけで良い。二度と同じ気持ちを味わいたくないと思うなら、強くなって見せることだ。お前は、まだ若い。そうすることは、まだ十分にできる」
 仁はこの老人に返す言葉が見つからなかった。間違い無くこの人は知っている。失うことの辛さも悲しみも何もかもを。何を言ってもすぐに言葉を返される。そんな気がして何も言えなかった。
「…ボクのハンター登録、取り消して下さい…あなたなら、できますよね?」
 掠れた声で、言えたのはそれだけだった。何故、そう言ったのか理由は不明瞭だった。ただ、自分が許せなかった。この場に居続けることが後ろめたかった。ボクは――
「逃げるのか?」
 少しの間を置いて、仁は口を開いた。
「…わからない…少し、時間を下さい。ボクがここに居る理由を、もう一度考えたいんです」
 嘘だ。逃げ出したい。もう何も考えたくなかった。この現実から逃げ出したかった。早くこの場所から離れたくて、仕方が無かったんだ。
 長は真摯な眼差しで仁をしばらく見据え、判断を下した。
「わかった。言う通りにしよう」
「…ありがとう」
 一言礼を言って立ち上がると、仁は振り返ることなくギルドを跡にした。
「彼…大丈夫ですかね?」
 窓口から顔を覗かせた男が、長に尋ねた。
「掛けるべき言葉は掛けてやった。後始末は、自分でつけるモノだ」
 長は、窓から仁の出て行った方を見つめながらそう答えた。

 淋しい、寂しい、悲しい、無力、怒り。喜び…あるいはそれに類似したモノ以外の、全ての感情がゴチャゴチャに混ざり合ったようで、訳が判らない内に、その日は終わった。
 でも、そんなことどうだってよかった。逃げ出したい。共に過ごした日々が、次々と想い出に変わっていくこの時から逃げ出したかった。
 ボクは、何がしたかったんだろう? 大切なモノは、手の平から零れ落ちた。言いそびれた言葉もたくさんあるはすなのに、全然思い出せない。
 ふと、片手をかざして見る。子供の頃は過ぎ去ったが、まだ大人には成り切れていない、そんな過渡期の中途半端さがある。頼りない手だ。
 守りたい人、いつからそう思い出したのか、記憶は曖昧だった。いつも一緒で、傍に居た。見ていると危なっかしいほど大胆で、そう思えば子供なほど寂しがり屋だったりする。そんな年でもないだろうと、仲良く握っていた手を離したのは、いつからだっただろうか。
 あの時、震えていた菖蒲は何を思っていたのだろう。しばらく手の平を見つめ、そんな考えを握り潰すように、強く拳を握った。
「――ボクだって、そんなの絶対嫌だ…ッ!!」
 仰向けに寝転がったベッドの上で、ぶつけ様の無い感情を拳に込めて振り下ろす。半端な音を立てて、ベッドに窪みができた。しばらくして、握った拳を無気力に開ける。
 その時の気持ちを表せる具体的な感情なんて無かった。不意に虚脱感で一杯になった。何もかも、全部済んでしまった、終わってしまったことなんだと実感した時、ボクの両目から涙が零れた。それが、自分のモノではないような気がして不思議だった。では、誰が流している涙だ。やはり、自分しか有り得ない。
「守れなかったらどうしようとか…考えたこと…なかったな…」
 考えがまとまらない。もう何も考えたくない。自分を励ます気にもなれなかった。こんなにも、自分は弱かったのだろうか。こんなことは初めてだ。自分でもどうしようもない、変えようの無い事実が、彼の胸の中をリアルに埋め尽していった。
 ――菖蒲は、もう…居ない。


 某所にある、とある山の中の某所、十字架の下、夏の緑は瑞々しく、空は抜けるような青空だ。この日は、決まって見る完璧な青。だが、彼の目には一つ色が欠けてしまっているように映る、完璧過ぎて、どこか物足りない青だった。
「やっぱり…まだ無理みたいですね…」
 誰にともなく、仁は苦笑混じりに呟いた。
 ここに来る度、少しも褪せることなく思い出してしまう。こんな思いをするくらいなら、出逢わなければ良かったと言う人もいるかもしれない。でも、それは間違いだ。人が生きていく中で、出逢わなければ良かった出逢いなんて無い。
 少なくとも、ボクと菖蒲が出逢って過ごした日々は、決して悲しいモノじゃない。彼女と出逢わなければ、今のボクは有り得ない存在だから。
「そろそろ行きますね。…また、来ます」
 最近は、少しだけ、ほんの少しだけ、ここに来る足が軽くなったような気がしてきた。自分を許したわけじゃないけれど、まだ逃げているのかもしれないけれど、ボクは――
 そこで空を振り仰ぐ。いつもよりも力強く感じる太陽が眩しくて、目を細めた。
 今より、ほんの少し、何処かヘ進めると良いと思う。ここは帰る場所であればいい、ここではない何処かヘ、ほんの少しだけ…歩いていきたい……
 彼の背中を後押しし、送り出すように風が吹く。まるで、彼の歩みを応援するかのように。気付くか気付かないか、そんな程度の軽いそよ風だった。

 また、あなたのように守りたい人が出来るでしょうか……
 その時、ボクはそのための勇気が持てるでしょうか……
 ボクには、その資格があるのでしょうか――

 いつも考える問題の答えは、風の中に埋もれて誤魔化してしまう。答えは、もう見えている。やっぱり、逃げているのかもしれない。今度、ここに帰る時には、答えを見つけたい。

 ――大好きで、守りたくて、掛け替えのない人が居たんです――

 ――待宵菖蒲…ボクの、親友が――


―FIN―




〜後書き〜
どうも、作者のひ魔人です。
前後編に分割して書いてみましたが、いかがだったでしょうか?
企画零話を参考に、勝手にギルド長使ってしまいました。かなり怪しいです(汗)。

それはさて置き、仁と菖蒲です。作者的に、数年後が見てみたい気もする二人だったりします(笑)。
この手のキャラは、好き嫌い別れるだろうと思いながら書いてたりもしました。作者もこの手の娘はちと苦手なのですが、最終的にはそんなモノは何処へやら。また、この二人を書いてみたいなぁとか思ったり(オイ)。
では、ここで菖蒲の設定と、前編にて述べたの裏ネタ明かしでも。

「待宵 菖蒲」
仁の親友、ハンターになった彼の傍にいるため、情報屋(まがい)の活動を始めた。
彼女の事が現在の仁の枷となっている。身長146cm、享年14歳。

「裏設定」
彼女の名前は花から取っておるのですが、その花言葉が彼女の心情みたいなモノを表しております。
花言葉は『大待宵草(おおまつよいぐさ)』と『菖蒲』から取ってます。意味は、だいたい以下の通りです。
『大待宵草』:ほのかな恋、愛の祈り
『菖蒲』:良い便りを待ってます
愛とは違いますけど、なんかイメージ的に合ってるな、いいなと思って。雑学ってネタの宝庫ですな(笑)。
企画を書かれる、読まれる上で何かの参考になれば幸いです。それでは(座礼)。

追伸:あんまり突っ込まないで下さい(オイ)


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おまけの詩です。