第八回 「もう一つの始まり」 栄えあらば滅びあり 偉大なる大国も永劫ではない 生あらば死あり 世界の偉人たちはもはやこの世に在らず 始まりあらば終わりあり これは終わりから2番目に遠き物語 彼らの短くも長き物語 今 それを語ろう 2024年3月28日木曜日 PM3:35 天候・曇天。 例によって川越某所にある七番隊本部は静かだった。 聞こえる音といえば、3者がそれぞれ違う飲み物を口の中に流し込む音だけである。 「………………」 叶は緑茶を飲みながらぼんやりと窓の外を眺めていた。曇り空なので、見ていても大しておもしろくない。 ため息をつこうとして、やめた。ため息をついたってどうにもならない。それでも、ため息のひとつもつきたくなる。 アルマには何度も「あまりため息をつくな」といわれたし、アキラには「ため息をつくごとに幸せがひとつ逃げる」と言われた。そういえば、ここに来るまでため息なんてほとんどなかった。 (それほど余裕がある、ってことかな?でもそれも……はぁ) 心の中でもため息をついてしまう叶であった。 菅原は新聞を読んでいた。 それだけなら別段変わったことではない。普段菅原は朝に新聞を読んでいる。こんな時間に読んでいるのは、持て余している時間を消費するため、ようするに暇つぶしである。 しかし、暇つぶしをするにしたってすでに読んだ新聞を読んでもしようがない。つまり、菅原が読んでいるのはただの新聞ではない。 菅原が読んでいるのは平成12年12月31日、つまり20世紀最後の日の朝刊である。 この場にミーリィがいたならば、「あいかわらず良い趣味してるわね」とでも言ったことだろう。しかし残念ながらここにミーリィはいないので、菅原がそう言ったことを言われることはなかった。 「………………」 しかし、読んでいておもしろいとは思わない。 マスメディアというものは今も昔も変わらず、まったく進歩していない。いくら技術が進もうが中身が変わらなければ意味はなさない。 (まあ、それはどうでもいいことですがね) そのことについてはあまり気にしない菅原であった。 悠里は緑茶を飲んでいた。 「………………ふぅ」 幸せなため息。こうしてのんびりできるのは良いことだ、と思う。 この緑茶は叶のデスクにおいてあるポットからいれたものだ。それにしても、叶のいれた緑茶は格別においしいと思う。今時の中学生───と言っていいのかわからないが───には珍しい。魚の食べ方もうまいし……いや、その話は関係ないか。 悠里はたまに味覚が曖昧になるときがあるのだが、今は特に問題なく機能しているようだ。 やはり、緑茶は味わって飲むものだと改めて思いながら一口。 (うん、おいしい) 日本の伝統文化とは良いものだと改めて思う悠里だった。のほほん。 で、そのころアキラは公園に来ていた。 「お、加奈子じゃないか」 「あ、アキラ。久しぶり……気楽そうで良いわね、あなた」 「間違いじゃないけど、これから大変なんだぜ、俺らは」 「何が?」 加奈子の疑問にアキラは何言わず、人差し指を空に向けて答える。 空にあるもの……そう、『赤の月』と『青の月』、二つの月が空に浮かんでいる。 「……もうすぐ、交差するんだっけね」 二つの月の交差。4年ごとに4月1日零時きっかりにそれは起こる。 今年で5回目となるが、ごく一部の人間を除いて何が起きるかは知る由もない。 「ま、何が起きようと正面からぶっ飛ばすだけだ。で、加奈子は何が大変なんだ?」 「受験よ、受験。アキラと違って私は大学受験もあるし、それから就職活動だってあるんだからね」 加奈子は小さくため息をつきながら言う。 「そういや俺は就職済みなんだよな……まあ、俺は頑張れとしか言えないが、頑張れ!」 「あーもー、他人事だと思ってぇ!」 加奈子が持っていたバッグを振りかぶる。 「まーまー、落ち着け。前に行った喫茶店で奢ってやるか……うごッ!?」 そのバッグがアキラの頭に直撃する。そのバッグは参考書やら何やらが詰まっていて、普通の人間なら頭蓋骨陥没でも起こしているところだが、相手がアキラだから大したダメージはない……はず。当たり所が悪かったらどうだかわからないが。 「あはは、ざまー見ろぉ」 加奈子はかなり楽しそうにけらけらと笑う。 「ててて……お前、結婚式のときは友人代表で絶対俺を呼べよな!?」 「友人代表で呼べ」とは何ともアキラらしい発言である。 「はいはい、わかってるって♪」 そう言いながら加奈子はまたもやバッグを振りかぶる。 公園の真ん中で夫婦漫才……否、ドツキ漫才を繰り広げているアキラと加奈子であった。 「……というわけで、風霧くん、そっち方よろしく」 『わかってますって。月の交差が起きてただで済むとは誰も思っちゃいませんよ』 「ま、それは当然ね……それじゃ」 楓は受話器を置き、窓から東京都庁ビルを見る。 「さて、これから本番か……最後の大仕事だしね、全力でかからないと」 「“語り部”の代理人としての、ですね」 楓はすぐさま振り返り、その声の主を見据える。 その人物には見覚えがある。いや、見覚えどころか楓がよく知っている人物の姿をしている。 「……ずいぶんと悪趣味ね。零美の姿を使うなんて」 「ごめんなさい、この世界で姿を写したのは彼女だけでしたから……気にくわなければ変えますが?」 「いいわよ、別に……で、何の用?」 その14、5歳程度の少女の容姿と闇としか例えられない黒色のローブを纏っていた。 その少女の容姿は刃神 零司の双子の妹、刃神 零美のそれと同じものであった。声の質もまったく同じで、本人でないことを除けば殆どの部分が同じと言える。 「いえ……私もいろいろと偽りの情報を与え続けてましたから、そろそろ本当のことだけをしようと思いまして」 「?それは、どういう意味?」 「そういう意味ですよ……あなたが“語り部”と関わっていなければ、教えていたかも知れません……それでは」 零美の姿をした少女は少し怒気のこもった声で言うと、そのまま空間に融けるように姿を消した。 「……零美、か。あれが、私たちにとっての始まり……」 2007年12月23日日曜日 PM1:46 天候・晴天 「クリスマスツリーって、モミの木だよね?」 「そうだな。主な輸出国はデンマークだ」 「へぇー。じゃあ、あのてっぺんの星は何?」 「そこまで知るか」 病院の一室で刃神兄妹がそんな会話をしていた。 いつもと変わらず、妹の零美が他愛もない質問をして兄の零司が即座に返す。それがほぼ毎日繰り広げられている。 「あれ、零司?手、怪我してる……」 零美は零司の左手に傷があることに気づき、その手を取る。 「ん?ああ、これか……大丈夫だ、クレシェントから教わったやつを使えば……」 そう言って零司は自分の左手に右手をかざす。そして、何度深呼吸をして精神を統一させる。 この時点で彼は“月”の人間との関わりを持っていた。彼と関わっていたのは「クレシェント・ルクザス」と言う名の魔術師で、零司は彼から幾つかの“術”の扱いを習得していた。 「うわぁ……すごい早さで治ってる……それって“気”を操るんだよね?」 零美は小さく感嘆の声をあげ、傷のふさがった零司の手を撫でる。そこは傷があったことなど、感じられないほどきれいになっていた。 零美は少し嬉しそうにしながら、零司の手を握る。 零美の手と零司の手とではすでに一回りの差がある。双子とは言え、病気持ちの零美と健康体そのものの零司とで、これほどの成長の差が出てしまった。身長差だって20cm近くある。 「ああ。ただ……余計に体力を使うからあまり有用性はないな」 「ふぅん……でも、休めば平気なんでしょ?」 「確かにそうだが、傷によっては丸一日休まなければならない……こればかりはどうしようもないな」 零司は軽くため息をつくと、零美の手を握り返す。 その手はぎょっ、とするほどか細く小さかった。 零司にはあまりにも儚くて脆い妹の手はとても愛おしく思えた…… 刃神 零美は中学一年の夏、余命1年と宣告された 12歳の少女にとってはあまりにも残酷すぎるものだった。 しかし、零美はそれをあっさりと受け入れた。それが彼女の知りたかったことだったから。 零美は自分の命が僅かしかないことは気づいていた。だからこそ、自分があとどれくらい生きられるのか知りたかった。 あと何年、何日、何時間、何分、何秒、零司や母親や友達と一緒にいられるか…… 二人がそんなやりとりをしていると、病室に一人の女性が入ってきた。 「やっほ、零美、そしてシスコン零司」 入ってきたのは星野 楓だった。軽い口調で挨拶をすると、そばに畳んであったパイプ椅子に座る。 彼女もまた“月”の人間との関わりを持っていた。彼女と関わりを持っていた者、それは“代理人”の名を冠する者で“竜の巫女姫”と名乗っている。 「……シスコンは余計だ」 「大丈夫だよ、楓ちゃん。零司には育美ちゃんっていう恋人がもういるから」 零司は一体何が大丈夫なんだ、とは思ったが後半部分は事実なので黙っていることにした。 「恋人、ねぇ……どっちかって言うと憧れの先輩止まりなんじゃない?」 「あー……そうだね。零司から何かしてあげないと、あの子内気だからだめだよ?」 ちなみに当時の育美は内気で押しの弱いの性格であったが、零司と結婚した後は彼の母親そっくりの性格になっている……環境とは恐ろしいものである。 二人のやりとりを聞いていた零司は、病室にもう一人入ってきたことに気づき、それを止めさせることにした。 「……おい、人を話のだしにするのもいい加減にしろ。辻がきた」 「お、辻くん。珍しいわね、ここに来るなんて」 新たに病室に入ってきたのは辻 久羅斗であった。ご存じの通り、彼は辻 叶の異母兄であるが、この時点では叶はまだこの世に生を受けていない。 彼は“代理人”である“黒壁の死神”と関わりを持ち、すでにDAとしての力に覚醒していた。 「ああ……実は、親父が再婚することになった」 「函館の?辻くんはいいの、それ」 「俺は構わない。お袋が死んで5年も経つし、親父が決めた相手だ……間違いはないだろう」 「で、正月には函館に戻るんだろ?」 「ああ、そのつもりだ……一応、親父の相手にも会っておく必要があるしな。しかし、俺はその人を「母」と呼ぶつもりはない」 久羅斗は椅子に座らず、天井を見上げながらそう言う。 実際に彼は叶が生まれたあとも叶の母親を「母」と呼ぶことはなかった。これはある意味の彼の割り切りだったのだろう。 「ずいぶん寂しいこと言うんだね……」 久羅斗の言葉を聞いて、零美が本当に寂しそうに呟く。 「年の差が12しかない人を「母」と呼べるか……」 「それは何か言い訳のように聞こえるけど?」 「そう思いたければそう思え……俺の用はこれだけだ、帰らせてもらう」 久羅斗は素早く踵を返し、病室から出ていった。 「辻くん、相変わらずだったね……ちょっと、寂しいな……」 「しょうがないって。辻くんはああいう性格なんだから」 楓は棚の上にあるリンゴとナイフを取り、慣れた手つきで皮をむき始めた。しかし、驚くべきはそのスピードである。1周2秒で皮をむいている……常人と比べるとかなり危なっかしく見えるのだが、本人は慣れきっているので何ら問題はない、らしい。 「楓ちゃん、いつも思ってるんだけどそれって手切らない?」 楓はこの病室に来てリンゴがあると必ずと言っていいほどリンゴの皮を剥く。しかもその習慣が3年も続いて、次第にその腕も上がっている。 「切るような手は持ってないのよ」 少し素っ気なく応えると、楓は皮を剥き終わったリンゴを切り分けて皿にのせる。 「はい。半分以上は食べてくけど、ちゃんと食べなさいよ」 「うん、ありがと」 皿にのったリンゴの一つを手に取りながら、零美が楓に礼を言う。 「……楓、そろそろ行くぞ」 零司が腕時計に目をやりつつ、リンゴを二つほど取る。 「ああ、もうそんな時間かぁ……それじゃ、また明日ね、零美」 「うん……じゃあね、楓ちゃん……ねぇ、零司」 「ん?」 「……ううん、なんでもない」 「そうか。だったら、俺は何も聞かんさ」 「ふぅ……」 零司と楓が病室から出てしばらくしてから、零美は小さくため息をつく。 『どうしたの、ため息なんかついて。疲れた?』 「うん、ちょっとね。零司だけならそんなでもないんだけど、楓ちゃんや辻くんが来ると思わずはしゃいじゃって」 『ま、確かにね。やっぱり、友達っていいわよね』 「ねぇ、ミーリィの友達はどんな人がいたの?」 ミーリィ・クローカ。零美が関わっている“月”の人間。 さて、奇妙な話である。彼女が話をしているのはあのミーリィ・クローカと見て間違いない。 しかし、ミーリィが生まれたとされているのは2004年4月2日、現時点ではまだ3歳のはず、なのだが、ミーリィ・クローカの存在が確認されたのは2008年6月。彼女の存在には奇妙な空白があることになる。 まあ、それはさておき。 『5人ぐらい。うち3人は“バベル”に取り込まれてる。なんとかしないといけないんだけど……今のアタシじゃどうしようもないんだけどね』 「残りの二人は?」 『片方はこっちに来ていると思う。もう片方はまだ向こうにいる、はず』 「じゃあ、クレシェントさんとは?」 『質問責め……』 ちょっとでも疲れているはずなのに少しはしゃぎながら質問をする零美に、ミーリィはため息をつく。 「にしても、悲壮感の欠片もないわね、零美は。それがいいとこなんだけど」 病院を出た零司と楓は自宅とは正反対の方向へ歩いていた。向かっている場所は、人気のない雑林地帯。 「あいつはよくわかってるんだよ。人はいつか死ぬ、ってことをな」 「……医師志望の人間の言ってることとは思えないわね」 「虚しい仕事さ、医者なんてな。まあ、人間が生に執着する以上医者は必要、と」 「ま、医者と葬儀屋が暇な世の中なんてないってことか」 「しかし、警察と自衛隊が暇な分にはいいんじゃないか?平和なことにこしたことはない」 「で、今平和じゃないから私たちがこんなところに来なくちゃならないわけで……」 『でも、表面上は平和なんでしょう?その平和を維持するため、ですよ』 いきなり楓の頭に若い女性───少女と表現とした方が的確か───の声が響く。 「ノイエ」 ノイエ。“竜の巫女姫”の名を持つ存在。容姿は定かではないが、声の質から年齢はだいたい10代半ばと予想できる。 いくら隣接───正確には重なりつつある世界であるからと言って、精神のみの介入をするのにはそれ相応の力が必要となる。 つまり、彼女をはじめとする“月”の人間の力はかなり高いものと思われる。 『でも、平和なんて来るはずがないんです。だから、私たち“代理人”はこうしてあなたたち介入せざる得ない……』 「ちょっと、そういうこと言われると何か士気が鈍るんだけど?」 『すみません……両腕の竜があまり騒ぐものでして……ちょっと、気分が悪くて』 「竜が騒いでるって……近いの?」 『おそらく』 そのノイエの声は楓にはどことなく苦しげに聞こえたが、彼女がどのような状況にあるか知る術を楓は持っていない。 「そっか。零司、クレシェントはなんて言ってる?」 「少し待て……クレシェント聞いているか」 『ああ……補足しにくいが、5体ばかりいる』 「5体だと!?」 『しかも比較的でかい奴だ。俺たちだけでは勝ち目は薄い。クライムがいればまた別だが』 「そうか……」 零司は額に手を当て、しばし思案してみる。 中型の無魔5体相手では、今までのように軽傷程度ではすまないだろう。つまり、服が破れていても誤魔化し聞かないということになる。 いや、その程度ならまだいい。下手をすれば命を落としかねない。しかし─── 「───どちらにせよ、やる必要があるのだろう?刃神」 いつの間に現れたのか、辻が零司の後ろに立っていた。 すでに日が沈みつつあるため、彼の姿はよく見えない。黒系の服を着ているのが主な原因だが。 「ま、俺が来たところで戦力比が2:8から3:7になった程度か」 「……最低でも5:5にしたいところだったけど、こればっかりはどうしようもないか」 辻の言葉に楓はため息混じりに二つの月を見上げる。 三年前に現れた「赤の月」と「青の月」。「青の月」が本来の月であることは有名な話だが、「赤の月」が「この世界と重なりつつある世界」が、丁度水面に映る月のように現れているということは知る者は少ない。 「赤の月」を覆っている『結界』はおそらく「向こう側の世界」の存在を知らせないために作られたものだろう。もっとも、この段階───2007年───ではほとんど実体がないため、あまり意味はないが。 「ま、5体いたとしても各個撃破ができれば戦力差を埋めることができる、はずだ」 『なーんで自信なさげに言うかね、お前は』 「お前が直接出られるなら何の問題もないだろうがな、クライム」 クライム。ノイエと同じ“代理人”の一人、“黒壁の死神”の名を持つ存在。 推定される年齢は20代前半。性格はかなり軽い方だ。 『そうしたいのは山々なんだが、そうなるにはあと17年はかかる』 「つまり2024年……お前たちが言う“バベル”が出現するとき、と言うわけか」 『そうなるな』 「……それまで、どこまで状況が悪くなるか、だな」 「ネガティブな考えが多いな、お前は」 零司は半ば呆れながら辻に対して呟く。 「あと17年……なんか、零司あたりは結婚して子供作ってそうね」 楓は半分冗談半分本気で言ったが、実際にそうなるのだから、世の中とは面白い。 「まったく、お前は……」 零司が楓に言い返してやろうとしたとき、‘それ’が現れた。 「散れ!」 ‘それ’に対し零司と楓は右、そして辻は左に。 「まずは小手調べだ」 辻はその顔に微笑を浮かべ、両手を組んで数秒ほど目を瞑る。 「それにしても、辻くんの“糸”ってああしないと作れないのかしらね」 「さあな。俺のが精神を集中させないとできない、のとは事情が少しばかり違うからな」 そもそも、零司が使用している“術”はDAが持つ異能力とは異なるもので、DAが使うものはある種の素質で発現する能力が決まっており、その能力は必ず一つである。もっとも、応用次第では別の能力に見せることもできるが。 ちなみにDAは先天性と後天性に分けられ、前者は2004年4月1日以降に生まれていて物心がついた時点で能力の存在が確認された者を指し、後者は2008年4月1日以前に生まれていて年齢に関係なく能力が発現した者を指す(もちろん、能力の発現は2004年4月1日以降) そして“術”はDAの能力とは関係なく使用できるもので、菅原 道真のように自身の能力を知らせない目的で使用している者もいる。もっとも、これにしても多少の素質は要求されるらしい。 辻は短時間の瞑想を終わらせ、組んでいた両手を解く。その10本の指からはそれぞれ1本ずつ“糸”がのびていた。 その“糸”たちはまるで生き物のように蠢き、‘それ’の両手足に絡みつく。そして、その“糸”が‘それ’の両手足をそのまま引き裂く。 引き裂くと同時に“糸”たちは‘それ’の首から胴体に絡みつき、そこも両手足と同じく引き裂く。 ものの数秒で‘それ’はあまりにもあっさりとただの肉塊と化した。断末魔の叫びを上げる間もなく。 「原色スプラッタね、これは」 その光景を見ながら、楓がぼそりと呟く。 「……爬虫類型だな。残りは4体か」 “糸”を引き戻しながら辻はあたりを警戒する。一応、自分を含める3人以外の気配は感じられない。 「……クレシェント」 『何だ』 零司は敵の襲撃がしばらくないと践んでクレシェントに話しかけたが、返事は素っ気なかった。 「無魔とは、何なんだ」 『こちらの世界に存在する『魔を喰らう者』……それが無魔。今ここにいるのは世界が重なる際に“遺跡”から流出した奴だ。数年もすれば、“彼”が張った結界も用を為さなくなるだろう』 「で、結局わからないことの方が多いということか?」 『そうなる』 零司は思わずため息をついた。とどのつまり、自分たちは「訳の分からない化け物」と戦っているわけで。 「零司!来た」 楓が零司に警告を放つ。 敵は零司たちと対峙するように3体同時に現れた。 1体はドーベルマンを2周り大きくしたような姿で、全ての関節が奇妙に隆起している。 1体は巨大な蟷螂で、全身がメタリックな装飾に彩られているように見える。蟷螂特有のカマは体長の3分の2ほどの大きさだ。 1体はトラ型で、見た目は異質ではないが血のような朱と闇の如き黒に彩られたその姿は邪悪に感じられる。 『冗談じゃない。あれは“バベル”と同時期に出た型だぞ』 「どういう意味だ」 『“バベル”の建造に携わった連中が人工的に遺伝子構造を変換させた型だ。ま、“バベル”がいなくなったあとは勝手に自滅したんだがな』 「それはつまり、今までのとは比べものにならないと?」 『そうなるな』 辻は思わず舌打ちした。目の前にいる無魔はさきほどのものとは比べものにならない力を持っている。果たして勝算があるのだろうか? 『楓さん、私たちも可能な限り助力しますが……その、今は状態が悪くて』 「どういうこと」 『ちょっと傷を負っていて……少し苦しいんです。だから、あまり集中できない状態なんです』 ノイエが苦しそうだったのは楓の気のせいではなかった。しかし、となると 「ほとんど自力でやらなきゃならないってこと?」 『おそらく……でも、竜が騒いでいますから、何とか竜だけでも……』 「わかった。なんとかしてみるわよ」 楓はノイエとの会話を打ち切り、一歩無魔に向かって踏み出す。 楓の前にいるのはトラ型の奴だ。威嚇のつもりか、低い唸り声を上げている。 『私が持っている力を送ります。体に負担がかかると思います……ですから、早くケリをつけてください』 ノイエが言い終わると楓は右腕に、何か締め付けられるような痛みを感じた。 袖を捲って右腕を見てみると、そこには文字のような紋様が現れていた。 「(これが、ノイエが持つ力……)」 その力に僅かながら恐怖を覚えながらも楓は着ていたコートを脱ぎ捨て、無魔に向かって走り出す。 楓が走り出すと同時に無魔もまた、楓に向かって走り出す。体当たりをするつもりなのだろう。 そして、楓の右の拳とそう広くもない無魔の額がぶつかりあう。 「ぐぅっ……!」 殴ると同時に腕が引き千切れるほどの激痛が走る。その激痛は一瞬だが楓の意識を失わせるほどだった。 だが、その激痛以上にそれの威力は凄まじかった。 その一撃で無魔の頭部の右半分が吹き飛び、無魔自身もトラックに撥ねられた以上の勢いで後ろの木に体を叩きつけられる。 「じ、冗談じゃないわよ……もう1回使ったら腕がいかれるっての……」 さきほどの激痛は止んだものの、今度は頑丈な鎖で締め付けられるような鈍痛が襲ってきた。 これが力を使う副作用だと言うことは間違いないが、これ以上は腕がもちそうにない。 「起きてくるな……」 そんな楓の願いも虚しく、無魔は起き上がった。残った左目の眼光は鈍るどころか一層鋭くなり、楓に対する敵意や悪意も増している。 無魔は楓をしばし睨んだあと、手負いとは思えない速さで襲いかかってきた。さすがの楓も右腕の鈍痛の所為でその強襲を避けきれず、辛うじて抑えることはできたが、それ以上のことはできない状態になってしまった。しかも、抉れた頭部が嫌でも目に入るのでかなり気持ちが悪い。 「最悪……」 楓は右腕の鈍痛と目の前にいる無魔に対して、苦々しく呻いた。 一方、零司は蟷螂型の無魔と不利な戦いを強いられていた。 「祈、大地を司どりし精霊よ、汝らの堅き槌を以て敵を砕け」 零司の言葉に応じるように大地が隆起し、隆起した岩盤が無魔に激しくぶつかる。しかし、無魔にとってそれは大した痛手にはなり得なかった。 「くそっ、表皮の装甲が硬すぎる」 『比較的軟らかい場所を集中的に攻撃できればいいが、精神を集中している間にあれの餌食になりかねない』 無魔の巨大なカマが零司めがけて振り下ろされる。零司は間一髪のところで回避できたが、零司がさっきまで立っていた地面は深く抉られていた。 「直撃したらただでは済みそうにないな……」 『英霊を呼び出すことができれば奴を倒すことはできる。が、少しばかり動かないでいて貰わないとな』 そんなことは言われなくてもわかっている。しかし、クレシェントも焦っているのだろう。今までにない強敵とやらを目の前にしてただ見ていることしかできないと言う状況に。 敵を倒す方法ぐらいは零司にもわかる。だが、それを実行することができない。つまりそれは、敵を倒せないことに繋がる。 敵の動きを止める方法……零司は横目で辻の方を見る。 辻は10本の“糸”でドーベルマン型の無魔を拘束している。ただ、さきほどのように肉体を引き裂くことはできず、無魔の体に“糸”が食い込んでいる状態にある。 つまりは、完全に膠着しているわけだ。“糸”が1本でも切れればその均衡は破られることだろう。 そのとき、零司と辻の眼が一瞬だが、合った。 ドーベルマンの体から2本の“糸”が離れ、その“糸”は蟷螂の2本のカマを拘束する。 「刃神!1体でも倒せれば戦況はこちらに傾く。早くしろ!」 辻の叫びに零司は頷いて応える。 「祈、この地に眠りし英霊たちよ、汝らの永き眠りを妨げる者に裁きを」 周囲の空気が静かな怒りに震えはじめる。 「汝らの怒りを唯一無二の矛となさん」 不可視の矛───しかし強大な力を感じる───が零司の前に形成される。 「砕!」 矛が無魔に振り下ろされる。矛は蟷螂の体を叩き潰し、辻の“糸”に拘束されていたカマのみがその場に残った。 「くッ……何だ……これは」 次の瞬間、零司は膝から崩れ落ちた。 全身から力が抜け、立つことさえままならない。続いて虚脱感が襲いかかり、意識が遠のきそうになる。 『英霊の副作用だ。すまない、迂闊だった』 「………………ぅ」 零司が何か言おうとしたとき、零司の前で金属のようなものが落ちた音がした。 意識を失いかけていた零司にはわからなかったが、それは残っていた蟷螂のカマだった。拘束していた“糸”が離れたためだった。 カマから離れた“糸”は再びドーベルマンの体を拘束する。 「しかし、これでは埒があかない」 “糸”はドーベルマンを拘束するだけで肉体を引き裂くことはできない。 さきほどの無魔とは肉体の強度が桁外れなのだ。それでも、“糸”はドーベルマンの肉体に深く食い込み、すでに骨にまで到達している。 しかし、“糸”の強度にも限度がある。張り詰めた状態が長く続けば、強度は次第に落ちていく。つまり。 「なッ……!?」 “糸”がドーベルマンによって引きちぎられ、“糸”の拘束から逃れたドーベルマンは辻を体当たりで跳ね飛ばす。 ドーベルマンの肉体の各所からは血が滴り落ちている。その量は尋常なものではない。肉体が限界に達するまで、もう幾ばくもないのだろう。辻の拘束から逃れたのはおそらく、1人道連れにするつもりなのだろう。 その対象は─── 「星野ッ!」 「……!?」 楓を対象にしたのは理由は@零司はすでに戦闘不能と見なしたA辻は一撃で倒すことはできないB楓は手負いで仲間(?)となら倒すことができる……と判断したからだろう。 楓が辻の叫びに反応したとき、ドーベルマンは牙をむき、すでに楓のすぐ目の前まで迫っていた。 「……ッ!」 しかし、その牙が楓に届くことはなかった。 なぜなら 「なんだ、あれは……!?」 ドーベルマンはまるで大地に串刺しにされているようだった。 影の中から大剣が現れ、ドーベルマンの肉体を貫いていた。 ドーベルマンの体が持ち上がり、影の中から人の形をしたものが現れた。 長身の男、ということはそのシルエットからわかった。しかし、その容姿は影に覆われて視認することはできない。 男は大剣を振り上げ、楓に肉薄している無魔に向かって大剣を振り下ろす。 「うわッ!?」 楓は大剣が振り下ろされる瞬間、思わず飛び退いた。腕が限界に近かったのと、巻き添えになりたくないという思いもあった。 トラとドーベルマンがまとめて叩き潰される。 その2体の無魔はどちらがどちらか判断がつかないほどの無惨な姿になり、「何かの肉塊」としか表現しようがない。 「今のは……?」 「辻くん、あと1体残ってるはずだから一応見てきてくれない?」 「……さっきの、気になるな」 「そうだけど、もういなくなってる人間、のことなんていいじゃない」 「まあ、それもそうか」 あのあと、辻が辺りを捜索してみたところ、鳥型の無魔の死骸が見つかった。おそらく、“影の男”によるものだろうと辻は判断した。 一方、楓は意識を失っている零司を左肩に担いで知り合いの医者の所へ行った。 で。 「しばらく右腕は動かすな。全体にひびがはいってるなんてことは普通有り得ないことだからな」 楓はこんなことを久々津 将波に言い渡された。 久々津は零司の母親の知り合いで、零美が入院して病院に勤めている医者でもある(主治医ではない) 「でさ、楓ちゃんはどれくらいで治るって?」 翌日、楓は1人で零美を見舞っていた。零司は体力の消耗が激しく、1日安静にする必要があった。 「2〜3週間はかかる、かな。まいったわね、これじゃあトレーニングができない」 「ははは、それは……大変だね」 「まったく」 陸上部所属の楓にとってこの負傷は痛手だった。毎日のトレーニングを欠かしたことがなかった楓には1日でもトレーニングをしないというのは酷く不快なことだし、ブランクが生じてしまうことも痛手であった。 「あのさ、クリスマスが終わったら楓ちゃんは田舎に行くんだよね?」 「その予定だけど……やっぱり寂しい?」 「うん……零司がいるから平気だけど……その……」 零美は言いかけて、言葉に詰まって俯いてしまう。 「正月が終わったら帰ってくるから、ね?」 「うん……」 楓は涙ぐんでいる零美をなだめながら、心の中でため息をつく。 「(こういう役は零司の仕事だっての)」 楓が心の中でそう思ったことなど、零美が知るはずはなかった。 「あ、あの、楓ちゃん。昨日、“語り部”が私に話しかけてきたんだけど」 「“語り部”が?珍しい。ほとんどノイエたちに任せっきりなのに」 そもそもクレシェントやノイエたちが零司たちに介入をしているのは、“語り部”と呼ばれる存在の力によるものだった。故に零司たちは“月”の人間から「“語り部”の代理人」と言う立場で扱われている。 もっとも、実際は“語り部”自身は楓が言うように何もせずに“月”の“代理人”に任せている状態にある。 「えっと……流出した無魔は全て消えたから介入を断つ、って」 「……本当に?」 「たぶん。ノイエさんは怪我してる所為で介入するのは無理らしいけど、他の人たちはあと数ヶ月で断つ、って」 「そう……」 楓は病室をキョロキョロと見回す。零美から聞いた話で受けた動揺を紛らわせるためだろう。 「零司には明日私が話すけど……辻、さんはどうしようか?」 「零美、辻くんは同い年なんだからさん付けの必要ないってば」 「え?えと、なんか同い年にはどうしても見えなくって……」 「まあ、確かに高校生には見えないけどね。だからってさん付けは」 「その話題から離れようよ〜」 「───顧問、星野顧問」 「……なに?」 「本郷、アントレック、菅原、宮下、クローカ、如月、辻の7名の突入を確認しました」 楓は部下からの報告を受けて、気怠そうに椅子から立ち上がる。 空には月が一つ、否、正確には二つの月が一つに見える。 「(回想する時間さえない、か)」 楓は心の中でぼやいた。 あのとき何を話していたのか、楓自身よく覚えていない。楽しすぎて、記憶に残っていないのだ。 刃神 零美がこの世を去ったのは2008年3月25日。今から16年と一週間前だ。 零美を看取ったのは零司だけで、零美が最後に零司になんと言ったか知っているのは零司だけだ。 「星野、京都から連絡ではまだ“遺跡”は眠ったままのようだ」 「ま、それはそうね。肝心の“バベル”が孤立している状態だもの。それはいいとして、辻くんは何が心配なわけ?」 「心配というわけではない。もし、クライムたちが遅れた場合それまでここにいる人間だけで凌がなければと思うと、頭が痛い」 「確かにね」 楓と辻は他の人間に気づかれないように笑った。 「何を笑っている」 そこへ零司がやってきた。一介の医者である零司はここに来ることはできないのだが、楓の顔、つまり職権を使ってこれるようにしたのだ。 「ちょっと、ね」 「……別に構わないがな」 そういって、零司は目の前にそびえ立つ“バベル”を見上げる。 それはほんの数時間前まで都庁ビルだったもの、今は醜悪な黒い悪魔だ。 そして、零司がゆっくりと口を開く。 「これで、最後だな」 これより奏でられるは終わりの詩 世界の運命はフォーチューンとフェイト いずれに向いているか それを定めるは───こんな私でもいつかは笑うことができる あとがき 第八回をお届けしましたが、いかがだったでしょうか。 今回はラストへ向けての「繋ぎ」の話です。 なので、番外編で書くつもりだった話を持ってきました(笑) 次が最終回になると思います。今までの話の決着がこれでつきます。 決着がついても謎が残るというのも、ある意味問題ありな気が(爆) では、また。 |