夢物語に語られていた末世とは、おおよそこのようなものなのだろう。 視線を向ければどこまでも続く荒野。 かつて森であった場所は燃え尽きた木々が墓標のように並んでいた。 通り抜ける風は熱気を帯び、滅びの予感を孕んで世界を駆け抜ける。 気まぐれに足を向けた村々では、総ての人間が生気を失い、俯いている。 時折、空を見上げる者もいた。 けれどそれは胸に期すものがあるわけではなく。 私達にとっては忌まわしい蒼穹を眺める事で、世界に広がる絶望から目をそらしているだけにすぎなかった。 私は一人、世界を巡る。 その滅びと絶望の根禍を追って。世界に散らばった仲間を求めて。 けれど私が今まで巡り合った『仲間』――『同胞』は、それまで見てきた人間達と変わらぬ姿をしていた。 この世界の支配者であるはずの私達が、世界に溢れる雑多な人間達と同じ姿で、滅びに怯え、絶望に震えていた。 私には、『仲間』などいなかった。 私は一人、世界を巡る。 何時からだろうか、人間達の様子がにわかに変化を見せていた。 目には光が宿り、俯いていた顔は何処かへと向けられている。 ――今にして思えば、それは希望ではなく。 単なる依存と逃避であったのだ。 私は彼等が抱く『希望』に興味を持った。 聞けば、人間の中から『災厄』に対抗する『英雄』が生まれたらしい。 大きな剣を携えたその『英雄』は、光と共に迫る『災厄』を討ち払ったと言う。 人間のそれを遥かに上回る力を持つ私達でさえ、何ら抵抗できなかった『災厄』。 それを、撃滅できぬとはいえ駆逐した『英雄』。 私はその『英雄』と会ってみたい、と思った。 ――そして、私は彼女と出逢った。 「お主が音に聞こえし『剣の聖女』か?」 初めての邂逅、初めての会話は、お世辞にも友好的とは言えないものだった―― Abysmal Vermilion ――2―― 「誰ッ!?」 夜闇に凛とした声が響く。 その女は険しい顔のまま地面に突き立てていた大剣を引き抜き、油断なく周囲を窺っていた。 野営の最中であったため、女のすぐ近くには火が焚かれている。火の灯が届かない場所にいる私の姿は、向こうからは全く見えていないのだろう。 最初に私に気付いたのは、女が傍に侍らせていた狼だった。 狼、と言うには少々語弊があるかもしれない。ソレは普通の狼よりも遥かに大きな体躯を持ち、そして鮮やかな紫の毛をしていた。 おそらくは魔物の類だろう、と最初は思った。 しかしあのような姿の魔物は知識でも知らなかったし、まして人に慣れる事など在り得ない。 何よりも、魔物特有の邪悪な気配が感じられなかった。 悪しきモノではない。だが、女が手にしている大剣のように聖なるモノだとは到底思えない。何とも表現しがたい、得体の知れないケモノだった。 「誰かいるの!?」 その紫狼の視線に気付いたのか、女が私を見て(見えていないだろうが)再び声を上げる。 私は少々の失望を込めて溜息をついた。この女は、別に隠してもいない気配さえも、察する事もできないのだ。 仕方なく私は焚火の灯の下に身を投じる。 その姿を確認して、女は安堵したように息をつき、そして私がここにいる事に怪訝そうな表情を浮かべた。 「貴方……?」 「人間共が好き好きに囃し立てておったが、随分とお粗末な『希望』じゃな。『幻想』の間違いではないのか?」 「……?」 私の言った事が理解できないらしく、女は首を傾げた。その仕草はどう見ても英雄と謳われた『剣の聖女』とは程遠い。 「えと……道に迷ったの? こんな所に一人でいると危ないわよ?」 こんな事を言い出す始末だ。 仮にも『英雄』と称される人間に会うのに、着ぐるみでは相応しくなかろうとわざわざ夜を選んだというのに、この『聖女』殿は外見でしか判断できぬらしい。 「危ない事などあろうものか。人間達なら怯えもしようが、そこらの魔物など恐るるに足りぬ。なにより夜闇は、我等が領域ゆえにな」 「人間、って……?」 全く察していない。わざわざ灯に晒して姿を見せてやっているというのに、観察眼すらも常人と変わらない。 私はこの女に会いに来た事に、後悔を感じた。 「わらわはマリアベル・アーミティッジ。このファルガイアの支配者にして、夜闇の王たるノーブルレッドじゃ」 埒が明かないのでこちらから言ってやると、女はそこでようやく私の容貌に気付いたのか驚きを露にして私を凝視した。 「ノーブルレッド……でも、ノーブルレッドって、六年前のスレイハイムの戦いで滅びたって」 「たわけ、我等ノーブルレッドをお主等のような脆弱な種と同じにするな。災厄に大敗したとは言え、まだ――」 滅びてはいない。 言いかけて、私は思わず言葉を止めてしまった。 そう、ノーブルレッドは滅びてはいない。 滅びてはいないが。"滅びてない"だけなのだ。 長きに渡って続けられた災厄との戦い。何ら災厄に拮抗する力を示す事も叶わずに、無為に消えていく同胞達。 そして私の父様と母様も、災厄の焔の中に消えていった。 六年前に起きたスレイハイムの総力戦。 残った戦力の総てを駆使し、背水の覚悟で望んだその戦いは私の記憶に在る限りもっとも苛烈であり、もっとも大規模なモノだった。 だが同時に。規模こそ桁違いではあったものの、方向性そのものはそれまで行われた戦いと何ら変わるモノではなかった。 ――強大な力を、更なる力を以って討ち果たす。 戦いの結果はその通りになった。 ノーブルレッドの力は、災厄の力に及ばず、これまでと同じように同胞の命を散らしただけだった。 戦いに生き残った僅かな同胞達は、数え切れない敗北と絶望の中で、遂に戦う事を放棄した。 災厄との戦いの折に建造された幾つかの避難所に身を潜め、疲弊した戦力を休ませ再起を図る……確かそんな名目だったはずだ。 だが、それが実質災厄に立ち向かう事を諦め、災厄が消え行くのを待とう――あるいは世界が滅びるまでの僅かな時間を生きようとしているのは明白だった。 だから私は、周囲の反対を振り払って世界を巡った。 ノーブルレッドはこの世界の支配者だ。その矜持を捨て去って、災厄に怯えて生きていく事などできるはずがない。 そんな賢しらな事が言えるのは、同胞の中で最も年若い私が災厄の暴威を熟知しえないからだ、と自分でもわかっていた。 けれど私はそれで構わない。数多くの同胞、何より父様や母様を殺された事実を抱えたまま、何もする事が出来ずに滅びを待つぐらいなら、災厄に傷の一つでも負わせてから灼かれて滅びた方がずっといい―― 「えと……マリアベル、ちゃん?」 「誰がちゃん、じゃ。わらわの方が年上なのじゃぞ」 女の声で現実に引き戻されて、私は慌てて頭を振った。今更になってこんな感傷を覚えるなど――まして人間の前で――噴飯物だ。おおよそ剣など似つかわしくないこの小娘の前では、どうも調子がよろしくない。 「まあよいわ。それより、お主が『剣の聖女』で相違ないのじゃな?」 「………。ええ、そういう事になってる……みたい」 確認のために尋ねると、何故か女は顔を俯けて漏らすように呟いた。人間なら英雄ともてはやされれば、大なり小なりいい気になるものだというのに、目の前の娘はどこか辛そうな表情を滲ませている。 まあ、そんな事はどうでもいい事だ。 「ならば重畳――」 そう言って私は立ち位置を改める。やや引き気味に、しかし後退はせず、大剣を降ろした女に正対する。 「――!」 鈍い女だったが、流石にこれだけわかりやすい気配を出してやれば察するのは簡単だろう。事実、女は緊張を顔に浮かべて私を見やっていた。その隣では、まるで女を守るように紫狼が立ち塞がり、低い唸り声を上げた。 「な、何……? どうして……」 殺気を放っているのだ、何もどうしてもない。 つくづく戦いというモノの機微に欠けているようだ。 「かの『災厄』を退けたと言う『剣の聖女』。どれほどのものか見極めてやろう」 「―――」 女の肩がぴくりと震える。震えているのだろうか――と、その前に。紫狼が一歩を踏み出した。完全に女を隠す形で、私の前に立ち塞がっている。女とは違い、牙を向いて敵意を顕している。 「ルシエド、待って」 (ルシエド……?) この紫狼の名だろうか。どこかで聞いた覚えがある。 人の名前ではない、なぞらえるような伝承や神話の名とも違う。いや、確か幼少の時分にそのような名があったような気がする。あれはどこで聞いたのだったか―― 「貴方がノーブルレッドって言うなら、敵はあくまで『焔の災厄』のはず。私と戦う必要なんてないでしょう? 目的が一緒なら、私達――」 「弱者に用などない」 「……ッ」 そう、私がここに来たのは、そのためなのだから。 私は『焔の災厄』を倒す。そのために、牙も矜持も棄てた同胞と別れ、世界に出た。 しかし、純然な事実として、私は『弱者』だった。 ノーブルレッドの力を結集してさえ倒しえなかった『災厄』。そんな暴威を、ノーブルレッドの中では若輩の私が、たった一人でどうにかする事などできようはずがない。 だが、私はそれをやろうと決めたのだ。 そのためならば、何でもしよう。どんなものでも利用しよう。 たとえそれが、私達ノーブルレッドよりも遥かに脆弱で、群れる事でしか生きていけない人間の力であろうとも。 ……ついさっき私はこの『剣の聖女』の事を『幻想』と称した。 それは言いえて妙かもしれない。 人間たちがそうするように、私もまた、そんな『幻想』に縋ってみようと思っているのだから。 「お主が『災厄』に抗する力たるに相応しい存在ならば、手を貸してやらぬでもない。が、お主が手にしておるその剣――その力が不相応なれば、お主等人間の興ずる茶番は今宵で終いじゃ」 「……わかったわ。なら、"私"の力を見せてあげる」 そう言って女はようやく私を正面から見据えた。 女の心情を読み取ったのか、私と女の間に立ち塞がっていた紫狼――ルシエドが場を譲るように身を引いた。 女は剣をゆっくりと構える。その大きさのためか、両の手で支えてはいるが重みを感じているようには見えない。 ここで私は、ようやく気付いた。 目の前に相対し、大剣を構える『剣の聖女』。 凛としたその顔に灯る意思の瞳は、私と同じ深い真紅。 「その前に、一つだけ言っておくわ」 女は強い輝きを称えた双眸で、私を見つめていた。 「私は『剣の聖女』なんて名前じゃない。私の、名前は――」
「アナスタシア、なのか…?」 マリアベルは再び呼びかけた。 信じたくはなかった。 遥か昔、大いなる災いに対し供に戦った仲間であり、唯一心を許した友。 ロードブレイザーを封じた時、激しい光の奔流と共に消えてしまった友。 二度と、会う事はできないと思っていた。 だが、彼女はまたマリアベルの前に現われた。以前とほとんど変わらぬ姿で。 ――ただ違うのは、どこか醒めたような真紅の目と、その身に纏う灼熱の燐光。 「……残念ながら、私はお前の知るアナスタシアではない」 「――ッ」 冷たい声でアナスタシアはマリアベルに言葉を投げる。 声色こそ正しくマリアベルの知るアナスタシアそのものであったが、耳に届くその響きは言葉通り、彼女の知る親友のものではなかった。 「……いや、あるいは」 「ロードブレイザーッ!!」 アナスタシアの呟きを遮ってアシュレーの声が響く。 ほとばしる怒りを抑えようともせず、彼は彼女――いや、『ロードブレイザー』に向かって口を開く。 「どういう事なんだッ! 何故お前がアナスタシアの身体に……!」 しかしロードブレイザーは窮する事もなく――むしろ笑みにも似た表情を浮かべてアシュレーを見やった。 「……何故? この期に及んでまだそんな事を言うのか。あの時言っただろう、お前の中に降臨する必要がなくなったと。そして今お前が目にしている事実がその答えだ」 「……アシュレーの代わりに、聖女の身体を手にした、と……?」 短剣を構えたまま、カノンが唸るように声を絞り出す。緊張からか、それとも別の感情からか、彼女の手にした短剣の切っ先は僅かに震えていた。 「その通りだ、聖女の末裔。そして無論――」 瞬間、大気がうねる。 息をする事さえ困難なほどの圧迫感が周囲を包み、その殺気は身を灼くほどに強く立ち竦む六人の身体を打ち据えた。 「――この姿とこの剣を"伊達"で手に入れた訳ではない」 「くっ……」 魔神の放つ煉獄の力と、魔神が手にした聖剣の力。 相反するはずの二つの力が混ざり合い、溶け合っている。 邪悪、あるいは聖浄と。そう言い切れる力であればどうにか立ち向かう事も出来たかもしれない。 だが目の前の『聖女』から放たれる力は、如何なる形容を持ってしても表現が出来ず、故にそれに対抗する術が見出せない。 言い知れぬ感情に顔を歪めながらも、しかしカノンは吐き出すように言葉を漏らした。 「……ならば斬る。例え貴様がどんな姿だろうと、どんな力を得ようと――それが私の血に課せられた宿命だ……!」 「流石は聖女の系譜、『災厄』を打ち滅ぼす宿命を継ぐ者。ならば」 つと唇を歪めてロードブレイザーは視線を動かす。真紅の瞳が見据える先は、青色の髪の青年。怒りを湛えながらも、声すら出せずに自分を見つめるかつての宿主。 「お前はどうなのだ? 『英雄』と戦う業を背負った『災厄』の嫡子よ」 「………ッ」 「アシュレー・ウィンチェスター。我が災厄の焔を継ぎ、我が焔を喰らった者。『英雄』が目の前にいる。『敵』はここにいる。私を討ち滅ぼすのだろう?」 言いながらロードブレイザーは両の手を広げてみせる。形ばかりに構えて見せたアシュレーの銃剣に、我が身を晒すように。 「こちらはようやくこの世界に降り立ったばかり。まして慣れぬヒトの身体だ。存外簡単に"殺せる"かもしれぬぞ」 「!! 貴様……ッ!」 アシュレーは瞳の内の炎を揺らし激昂する。 その貌だけは今にも銃剣を振るいそうであったが、身体だけが硬直したように動かない。 そんなアシュレーの傍らで、ロードブレイザーの動向に注視しつつ思考を巡らせる男がいた。 (誘っている……のか? どういうことだ? 『身体』に慣れるために時間を稼ぐというならまだしも――) 彼――ブラッドは冷静に状況を把握しようと努めていた。 どんなに信じられなくとも、起こった『事実』は受け止めねばならない。 事実を正確に受け取り迅速かつ冷静に判断する。 幸い、というべきだろうか、この場において"もっとも近く、もっとも遠い立場"にいるのは彼だけなのだ。 「アシュレー、挑発に乗るな。"奴"は……」 「どうした、アシュレー・ウィンチェスター? 来ないのか」 ブラッドの言葉を遮るようにロードブレイザーが声を出した。 そして"彼女"は紅の瞳を小さく細め、嘲るような口調で言い放った。 「それとも… 「……ッッ!!!」 その瞬間、アシュレーの中で何かが弾けた。感情が迸るよりも早く、身体は地を駆けていた。 ブラッドが制止しようと手を伸ばすも、彼の身体はとうにロードブレイザーに向かって疾走していた。 「アシュレーッ! ……チッ! カノン、マリアベル!」 叫び、ブラッドは拳を握り締める。 その合間にもカノンは縛鎖に解き放たれたように疾走を開始していた。アシュレーよりも遅く始動した彼女は、しかし彼よりも遥かに早い動きでロードブレイザーとの距離を縮めていく。 ブラッドはマイトグローブに その視線の先――リルカとティムは……何もしていなかった。 いまだに武器を構える事もせず、呆然とロードブレイザーを見つめている。 ――無理もない事だった。 アシュレーやカノン、マリアベルのように『ロードブレイザー』や『アナスタシア』と因縁がある訳でもない。ブラッドのように事情に拠らず戦闘に対応するほど経験がある訳でもない。 いくらこれまでの戦いを潜り抜けてきたとはいえ、二人はまだ――子供なのだから。 「いけっ!」 ブラッドのヘヴィアームが火を吹く。放たれたABMプレデターはいくつもの尾を引いてロードブレイザーに伸び、先を走るアシュレーとカノンを追い抜いて標的へと辿り着く。 「―――」 ロードブレイザーは迫る六つの砲弾を見据えると、ゆっくりと手にした聖剣――アガートラームを引き、空いた左手を前方に翳した。そして目の前にあるモノ総てを払うように、一閃。 瞬間、爆炎が巻き起こった。弾とは言わず総てを焼き払う烈火が溢れ出し、"彼女"の眼前に迫っていたプレデターを悉く破砕する。 爆炎が消え去らず、爆砕の音が鳴り止まぬ内にもロードブレイザーはゆっくりと身を乗り出した。しかし、その挙動は己が左腕によって制限された。 手を払った瞬間か、あるいはその直後か――ロードブレイザーの左腕には、まるで蛇に絡まれたような幾重ものワイヤーが巻きついている。 「上手い、な」 慌てる様子も見せずロードブレイザーはアガートラームを振るう。長大な剣は重さを忘れたように翻り、ワイヤーを寸断した。 そのまま動きを止めずアガートラームを振り払う。まるで始めから動きがわかっていたかのように、アガートラームの刃先は爆炎の中から躍り出たカノンの短剣を受け止めていた。 「く……ッ!!」 「己で放った焔だ、異物の侵入などすぐに知れる」 言いながらロードブレイザーは力任せにアガートラームを振り抜く。"彼女"の細腕に一体どれほどの力があるのか、衝撃に耐え切れずカノンの身体は大きく吹き飛んだ。 その様子を確認する事もなく、ロードブレイザーは身体の向きを変えた。 先程自分で言ったとおり、己の焔の中の動きなど簡単に把握できるのだ。 ――それ故に、ロードブレイザーは最期に躍り出た青年に正対した。 「アシュレー・ウィンチェスター……」 "彼女"は彼の名を呟く。 対応する事など容易であったはずにも関わらず、完全に無防備で。 何処か哀しい、何処か光を湛えた微笑を浮かべて。 「ぉぉおおおおぉっっ!!!」 アシュレーは手にした銃剣を握り締め、振りかぶる。 そして彼は渾身の力を込め、一気にその銃剣を"彼女"へ――― "私はアナスタシア。…もっともキミのいた時代では『剣の聖女』の方が通りがいいみたいね" "…そうやって何もかもおしつけてしまえばいいと考えているのね…" "死にたくなんてなかったッ!!" 「〜〜〜ッッ!!!」 刃を振り切る事ができず、しかし勢いのついた斬撃を止める事もできず、重い銃剣はアナスタシアの肩に食い込んだ。 裂けた肩口からじわりと血が溢れ、白い衣装を濡らしていく。それは紛れもない、生きたヒトの証。 「……無様だな」 どこか失望したような声で、"彼女"は言った。 「お前は今まで、その剣で多くの者の命を喰らってきたのだろう」 それは襲い来る多くの魔物達であり。 それは信念を異にする同じ人間であり。 それは信念を同じくしながら剣を向けるしかなかった兄妹だった。 「だというのに、何故ここでその剣を止める――!」 「う………!」 ―――瞬間。 体に衝撃が走った。 彼は何が起きたのかを認識できないままに大きく吹き飛ばされる。 「アシュレー!」 一早く反応したブラッドが投げ出されたアシュレーを受け止める。しかし彼ほどの体躯を持ってしてもその衝撃を完全に殺す事は出来ず、二人はもつれるようにして地面を転がった。 ブラッドはどうにか受身を取って体勢を立て直す。至近で衝撃を受けたアシュレーはまだ快復しきれていない。 どうする、と考えた時には、既に遅かった。 「――ッ!?」 ブラッドが前方に向き直った、その目の前。その眼前には白き大剣を振り下ろす聖女の姿。 「く……っ」 身をかわす術はなかった。ブラッドは片腕でアシュレーを跳ね飛ばし、残る利き腕――マイトグローブで迫るアガートラームを受け止める。 衝撃が炸裂する。赤い閃光が爆裂する。 跳ね飛ばされたアシュレーが地に腕を付きながら見据えた先には、倒れ伏したブラッドと、それを意に介さず彼を見つめるロードブレイザーの姿があった。 ロードブレイザーはアシュレーを見据えたまま、アナスタシアの口で言葉を紡ぐ。 「"犠牲のない世界"とお前は言っていたな。その言葉は今までお前が倒してきた者達、それを礎にして今存在しているこの世界、そして"あの兄妹"や"私"――ヴァレリアの存在を否定している事に何故気付かない」 「………ッ!」 言葉を返す事が出来ず歯を食いしばる。 想いはある。信じるモノがある。けれど、それを言葉にして出す事ができない。アシュレーはそのもどかしさに身を震わせる。 彼のその姿を見て、ロードブレイザーは――アナスタシアの顔で眉根を寄せた。不快そうに歯を噛み、一歩進み出る。 そして―― 「――!」 振り向きざまアガートラームを薙ぎ払った。 しかしその斬撃は空を切り、背後から一直に迫ったカノンを捉える事はない。 まるで獣か何かのように低い姿勢でロードブレイザーの懐に飛び込んだカノンは身体中の気を練って渾身の一撃を叩き込んだ。 「―――」 叩き込んだ、はずだった。 いいや、事実、攻撃自体は命中していたのだ。しかし、身体が吹き飛んでいるのは他ならぬカノン自身だった。 アガートラームの一撃を潜り抜けたその直後、カノンの一撃とほぼ同時。遅れてきた焔の烈気に彼女の身体が弾き飛ばされていた。命中したのは間違いないが、ダメージを完全に相手に伝えきる事ができなかった。 飛ばされながら体勢を整えられたのはカノンの敏捷性の高さの証明と言えるだろう、だが一時にしろ体勢を崩してしまった事実は、今この時においては致命を意味する。 脚が地に着いた瞬間、焔がカノンを包み込む。身体はもとより心すらも灼き尽くすような煉獄。動く事すらもままならない彼女が次に見たのは――朱い紅蓮を貫く眩い銀光。 「っぐ―――あ、ッッ!!」 直撃する。光が身体を貫いて、ほんの僅かに遅れてきた衝撃に身体を飛ばされ、カノンは背後にあった柱に激突した。 柱を伝わり地面にまで伝わるような轟音が響く。 地核中心にあって堅牢を誇るはずの柱にひびが入り、それ程の衝撃を叩き込まれたカノンが無事である道理がなかった。 アガートラームから迸った光が霧散すると、支えを失ったように彼女の身体はずるずると地面に倒れこんでいった。 「―――お前の躊躇が、この『犠牲』を生んだ」 銀光、一閃。 露を払うようにアガートラームを振ると、ロードブレイザーは構えを解いてアシュレーに向き直る。 「ぐ……」 アシュレーは全身の力を振り絞り立ち上がろうとしたが、彼の意思に逆らうように身体は動かない。焼かれた四肢が悲鳴を上げて動作を拒絶する。頭の中まで焼かれてしまったのだろうか、目の前のロードブレイザーの姿も歪んで見えた。 「――お前はどうするのだ?」 そんなアシュレーを一瞥して、ロードブレイザーは不意に言葉を漏らした。うずくまったままのアシュレーに背を向けて、紅い視線を言葉の相手――マリアベルへと向けた。 「―――ッ」 "アナスタシア"の姿を直視して、マリアベルの身体は雷に打たれたように震えた。 その姿は紛れもなく、彼女の知る友の姿。けれど向けられた視線は、マリアベルの知る"彼女"とは全く異なる。 「お前なら理解できるだろう? 私は"アナスタシア"ではない。私は"ロードブレイザー"。お前の同胞を滅ぼした仇敵だ」 「………」 "アナスタシア"の口から放たれる言葉にマリアベルは顔を歪める。そして彼女は震える唇で、ようやく言葉を紡いだ。 「何故………」 ようやく。 ようやくそれだけ。 けれどその言葉は、彼女が独り生きてきた数百年の年月が篭っていた。 「――何故、と問うのなら。その答えを見せよう」 そう言ってロードブレイザーはマリアベルに一歩を踏み出す。 こつり、と低い音が床に響く。 そしてもう一歩踏み出そうとした時。 マリアベルとローブレイザーの間に二つの人影が立ちふさがった。 「リルカ、ティム――お主ら」 「……」 二人は答えなかった。顔を振り向かせる事もしなかった。 顔を見せずとも、背中を見るだけで簡単に二人が震えているのがわかる。 二人は各々の武器を手に、納まらぬ震えの中で、"聖女"に宿った"災厄"の前に身を晒している。 立ち塞がった二人を前に、ロードブレイザー ――"アナスタシア"は小さな苦笑を浮かべた。 それはどこか、羨望を思わせる微笑だった。 『――貴方はもう、独りじゃないのね』 アナスタシアは呟く。その言葉に、マリアベルは顔色を変える。 とても、とても小さな呟き。 その言葉は無形の刃となってマリアベルに突き刺さった。 「ア――」 「さあ、決断の刻だ」 呼びかけようとしたマリアベルの言葉を遮って、ロードブレイザーが口を開く。ゆったりとした動作で剣を動かし、再びマリアベルに一歩踏み出していく。 その一歩が、マリアベルとアナスタシアの間を引き裂いた。 「うあああっ!!」 気合の声――というよりは、対峙に耐えられなくなったかのようにティムが叫び、力を解き放つ。 彼の意思は白い氷の槍となって具現化し、さほど遠くもないロードブレイザーに向かって一直線に飛び掛っていく。 同時にリルカも動き、彼女もまた力を解放する。光が彼女の手の内から放たれ、中空に描かれた紋章から発動する。 ロードブレイザーは避けるそぶりすら見せず、ティムの放ったアークティックに身を晒した。氷の力が炸裂し、周囲に雹霧にも似た力が破裂する。 周囲が白い霧に覆われ――その中から腕が、身体が、剣が疾走した。 魔術を旨とするティムに、渾身の力で放った魔法の中から飛び出してきたロードブレイザーに抗う術などあるはずもなかった。 胸倉を掴まれ、空に持ち上げられる。リルカがそれに気付いた時には、放り投げられたティムに巻き込まれて二人とも地面を転がっていた。 「あっ、ぐ」 ――悲鳴すらも遅い。 彼女達の感じた風は投げられた衝撃か、その風はやがて熱を帯び、色を帯び、力を帯び、破裂した。 爆炎が二人を包み込む。 ほんの一擲、刹那に等しい時間で、二人は地面に崩れ落ちていた。 「ぁ―――」 それでも、マリアベルは動けなかった。 身を挺して助けてくれた二人を、呆然と見やる事しかしなかった。 共にしていた時間は短かったけれど。 あの二人も、それまでに倒れ伏した三人も。 彼女にとっては紛れもない『仲間』だった。 ――だからこそ、彼女は動けない。 目の前にいる"彼女"が呟いた言葉が、楔となってマリアベルを縛り付けていた。 「――幕引きだ」 ロードブレイザーは宣告する。 聖女たるアナスタシアの身体に焔が纏わりつく。鮮やかな朱色の焔は眩過ぎて、壮麗さよりも苛烈を思わせる。 まるで見るもの総てを灼くように。まるで焔自体が意思を持ち、総てを灼こうとしているように。 「我が焔は負の焔。我が身に纏うは生きる者が抱く絶望の朱色、死した者が遺す怨嗟の緋色……葬送の灯火には相応しかろう」 「――ロード、ブレイザー……!」 そしてマリアベルは、ようやくその名を呼んだ。 戸惑いに揺れていた瞳が熱を帯びる。それは奇しくもロードブレイザーが纏った焔と同じ色。 一族を滅ぼされた少女が抱くは、憤怒と憎悪。 その目を見て、ロードブレイザーは小さく笑みを浮かべた。 「――それで良い。"私"は『焔の災厄』だ」 マリアベルが唇を噛み締める。僅かに切れた口の端から、まるで焔のように赤い血が流れた。 「ロードブレイザーッ!!」 マリアベルの身体が動く。翳そうとした手が齎すのは術の発動か、従僕の召還か。 力が形となって具現する、正にその瞬間。 「やめろマリアベルッ!!」 「―――ッ!?」 横から轟いた声にマリアベルの身体がこわばり、ロードブレイザーがアガートラームを構えそちらを振り向く。 しかし対応するには、僅かに遅かった。 如何に魔神が宿っているとはいえ、所詮は女性の身体。勢いをつけて突っ込んできたアシュレーに押されロードブレイザーは後方に押し流される。 (――あの紋章魔法はヒールだったか) 先のリルカ・ティムとのやりとり。ティムが放ったのは氷槍を打ち出すアークティックだったが、リルカは同時にアシュレーを癒すための魔法を放っていたのだ。 特に示し合わせたという訳ではないはずなのに、瞬時にそんな芸当ができるのはやはり共に並んで戦った月日が齎したモノだろう。 「"彼女"は"アナスタシア"なんだぞ!!」 組み付いてなおアシュレーは突進を止めないまま、叫ぶ。マリアベルはびくりと身体を震わせて、ロードブレイザーは――アナスタシアの貌を歪めた。 「まだ戯言を繰る気か……!」 たたらを踏んでアシュレーの突進を止める。身体を掴むアシュレーの肩を逆に掴み上げ――二人の身体は焔に包まれた。 灼熱の空気が二人を舐め上げる。呼吸さえままならぬほどの烈火がロードブレイザーとアシュレーを焼き尽くす。 しかしそれでも、アシュレーはアナスタシアを放さない。 「武器もなく、アガートラームの加護もなく、私の力の恩恵もない今のお前に、何ができる!」 「――僕は………ッッ」 銃剣は先の攻撃で既に弾き飛ばされている。 かつて身体に取り込んだアガートラームの力は既になく。 かつて身体に宿したロードブレイザーも既にいない。 残されたのは、ただこのちっぽけな人間の身体一つ。 けれどこの身体に宿っているものが、確かにある。 それはとてもおぼろげで、たよりなくて、今にも壊れてしまいそうなほど脆い。 だけどそれは何よりも強く、揺ぎ無い。 「……僕はお前を倒すッ! アナスタシアを救ってみせるッ!!」 ――ヴァレリアの哀しみを止めてみせる、と。 「――そう約束したッ!!!」 ――けれど僕には力がない。 大切なものを守る力が。 約束を守る力が。 この想いを成し遂げる力が―― ―――本当に? 遠くて近いあの場所で。 誰かが言った。 私はお前。お前は私。 私はもうすぐお前になる私に他ならないと。 ――お前が僕だと言うのなら。 ――僕がお前だと言うのなら。 忌まわしき"お前"の力は、 "僕"の力に他ならない――! 「ぉおおおおおッ!! アクセス!!」 包み込んだ焔が霧散する。 否――喰われていく。 紅蓮の焔は灼光の身体に。 煉獄の紅は異形の身体に。 彼を焼き尽くした焔が彼を構成する力へ変貌する。 魔神が宿りし聖女、その眼前に。 人間の宿りし焔の騎士が現界を果たした。 |
←BACK | NEXT→ |