その姿は以前のモノとは明らかに異なっていた。
光輝を感じさせていた黄金の身体はそこにはなく。
それはまるで焔そのものと見紛うように赤熱した紅色。
肩口から吐き出される二筋の炎の尾は、火花を帯びてはためく翼を思わせる。
溢れ出す力が焔を呼び、弾け散る焔は力となって周囲を焦がす。
今この瞬間に顕現した紅蓮の体現、見る者すら灼き尽くす真紅の騎士。
――正しく、伝承に語られた災厄と呼ぶに相応しい威容だった。
クリムゾンナイト
Abysmal Vermilion
――3――
赤い光が炸裂する。
真紅に染まった騎士は聖女を巻き込んだまま火柱を上げ、周囲に火花を撒き散らす。
互いに触れ合う、その短い距離で、
騎士と聖女は互いを睨みつける。
「独力で接触 できるほどに私を取り込んでいたのか……!」
「これはお前に与えられた力……だけどッ! これは紛れもなく僕の力だッッ!!」
ナイトブレイザー ――アシュレーの焔が勢いを増す。本来の主であるロードブレイザーをも呑みこまんとする力の奔流にロードブレイザーは僅かに足を引き――しかしその場に踏みとどまった。
「流石はもう一人の私だ……が」
ロードブレイザー……アナスタシアの紅の瞳がその深さを増す。それと同時、アシュレーが放ったものと同様――否、それ以上の焔がロードブレイザーから放たれ眼前のアシュレーに叩きつけられた。
「――ッ!!」
その衝撃は強く、激しい。
耐え切れずアシュレーの身体が僅かに開き、その隙間に滑り込むようにロードブレイザーの腕が割って入る。
身体に組み付いたアシュレーを振り払うように腕を一閃させると、周囲の焔が生き物のようにアシュレーに襲い掛かった。
もう炎と呼べないような重い衝撃を伴った力はアシュレーの身体を容易に吹き飛ばす。しかし彼は獣のように四肢で地に着地すると、立ち上がると同時に腕をロードブレイザーに向けて振りかざした。
「ガンブレイズッ!!」「ネガティブフレア!!」
アシュレーから炎弾が吐き出されると同時、鏡写しのようにロードブレイザーも力を放つ。
ぶつかり合った二つの焔が爆炎を撒き散らして周囲を焼く。その衝撃が収まるよりも早く、その中から焔の騎士が飛び出した。
手には鮮やかに輝く光の剣。
燐光を散らして疾走するアシュレーにロードブレイザーは手にした大剣――アガートラームをなぎ払う。
聖女の聖剣と、騎士の光剣が交錯する。
耳が千切れるほどの剣戟と共に、光が弾けた。
――それは、伝説の再現だった。
途切れる間もなく交錯する二つの影。
互いに交じり合い、けれど染まる事のない白色と紅色。
その間に飛び交う巨大な力。
衝突する光。弾ける焔。
爆炎と破光に彩られ、聖女と災厄の戦いは完成された舞踏にも見えた。
――しかしそれは、伝説ではなく現実だった。
そして同時に、目に見えている事実は真実ではなかった。
聖剣を携え振るうは災厄に取り込まれた聖女。
焔を纏い咆哮するは災厄を取り込んだ青年。
それを知り得る者はこの場にいる者達だけ。
今それを見届けている者は世界にたった一人の少女。
彼女にとってそれは過去の再現であり――現在の苦痛であった。
「……やめて」
少女の顔が歪む。
しかしその苦悶の表情は、聖光に阻まれ誰にも覗かれる事はない。
聖女が剣を振るう。腕で受け止めた災厄はその衝撃に弾き飛ばされ、しかし飛ばされがらも焔を放ち、聖女はそれを一息で切り上げ両断し、疾走する。
――その聖女は、共に戦おうと約束し、そして消えていった親友だった。
「……やめて」
少女の小さく呟く。
しかしその掠れた声は、爆焔に遮られ誰にも届く事はない。
災厄が腕を振るう。放たれた焔に聖女はひるむ事無くそれを突破し、災厄は振り下ろされた剣を己が剣で受け、空いた胴に拳を突き入れ聖女を跳ね飛ばす。
――その災厄は、共に戦おうと約束し、そして今共にある仲間だった。
「もう、やめて――!!」
少女は叫ぶ。
見るものを、聞くものを拒絶するように手で顔を覆い、その場にうずくまる。
――もう彼女にはわからなかった。
彼女が誰なのか。彼が誰なのか。
誰と誰が戦っているのか。自分は誰と戦うべきなのか。
自分が何をしているのか。自分の言葉は誰に向けられたものなのか。
彼女には、わからない。
近くて遠い剣戟と光が、静寂の中に消えた。
――互いに距離を置いて対峙する。
ロードブレイザーは手にした大剣を構えたまま。
ナイトブレイザーは手にした光剣を杖代わりに床に突き立てて。
もう幾十も力を交えてきたためだろうか、互いは肩で息をしながら、それでも互いを見据えている。
(――これが人間の身体か)
ロードブレイザーは心中で呟く。
重みがないはずのアガートラームに重みを感じる。自身の肉体にさえ重みを感じる。
かつて聖女の戦いにおいて負った、存在そのものを殺傷された時の疲労感とは違う、明らかな衰え。
"元の身体"では決して感じる事のなかったその感覚に、ロードブレイザーは不思議な高揚感を覚えていた。
(これがこの世界に生きる者の証、というべきか。お互い……度し難い存在だったのだな、"私達"は)
(………、……)
そしてロードブレイザーは目の前の自分――ナイトブレイザー、すなわちアシュレー・ウィンチェスターを見やる。
彼もまたロードブレイザーと同様に肩で息をしていた。しかし、アシュレーの様子は普段と違う。
時折震えだす全身を押さえつけ、貌にこそ見えないがそれとわかる苦悶の気配を漂わせている。
「……無謀だな。そのまま私の残滓に食われるつもりか」
「ク――グ、ぅ……」
アシュレーは声を漏らし、苦しそうに胸を手で掴む。
――彼の苦痛はある意味で当然の結果だった。
彼の姿――ナイトブレイザーの力は本来アガートラームとアシュレー自身の意思によって制御されたものなのだ。ロードブレイザーそのものは既に抜けてしまっているとはいえ、アシュレー単独で制御し得るほど『災厄』の力は生易しいものではない。
「"今の"お前に私の焔は御し得ない。聖剣の恩恵を失った今、お前の"下らぬ激情"では力を律するなど叶わぬと知れ」
「ッッ――ォオオォオオッ!!」
赤い光が爆ぜる。アシュレーが放つ焔は尚も勢いを増し、周囲を焼きつかせる。深く深く赤熱した身体を軋ませ、アシュレーは再びロードブレイザーに疾走した。
「――――」
ロードブレイザーはアガートラームを握り締める。
力を得たのはアシュレーだけではない。
我が身にはこの身体と、この聖剣がある。
――これまでの戦いで、要領は得た。
「アシュレー・ウィンチェスター。我が力を継ぐ者よ」
アシュレーが眼前に迫る。光剣は既にその実態を失い、彼は異形の爪牙を持って"アナスタシア"に力を振るう。
「『災厄』を継ぐ者ならば克目せよ!」
アガートラームから光が溢れる。
必殺の間合いから放たれるアシュレーの一撃。しかしそこに振るわれるべき相手の姿はなく。
「これが『災厄』を討つべく生まれた『聖女』の力! これが『世界』に選ばれた『英雄』の力だッ!!」
横合いから振り下ろされたアガートラームの斬撃を、避ける術はなかった。
身体を裂く感触を感じる。同時に身体の中を貫き、弾けるような光の衝撃がアシュレーを襲う。
まるで人形のように吹き飛ばされ、地面を二度転がって彼は動きを止めた。振り仰ぐ前方には、既に剣を構えた聖女の姿。
聖光を身に纏う彼女の姿は、まさに聖女の名に相応しい。
「グ――!」
光剣を現出してアガートラームを受け止める。これまで受け切れていたはずの斬撃が一気に押し切られ、アシュレーは肩から袈裟懸けに切り裂かれ、再び吹き飛んだ。
床を抉りながらたたらを踏み、向き直り様にガンブレイズを放つ。
肥大した焔弾は轟炎を放ちながらロードブレイザーに迫る。
しかしその焔は、まるでロードブレイザーに当たる事を拒むかのように軌道が逸れ、背後の壁面を破砕した。
「……!?」
いや、違う。ロードブレイザー ――"アナスタシア"の周囲に揺らぎが見える。まるで聖女を護るかのように周囲の空気が踊っている。
(エアリアル――)
聖女を護る清風の壁。焔を遮る力の流動。記憶の遺跡で一度目にした事がある、"彼女"の使っていた力。
これまで見せていた欠片の力ではなく、『剣の聖女』そのものの力。
ロードブレイザーに光が集う。手にしたアガートラームに光が収束し、輝きを増す。
耳鳴りにも似たノイズが頭の中を駆け巡った。
それは力の共鳴。アガートラームに集まっていく無尽蔵の力が互いに共鳴し、増幅している。
「アナスタシア――!」
思わず、叫ぶ。
しかしそれに応えるは、"彼女"の身体を持つ別の存在。
「―――アーク」
「く、そ――ッッ!!」
アシュレーは渾身の力を放出する。
身の裡側で暴れる『力』を、それまで抑え続けていた衝動をあえて好きにさせ、方向だけを定めて一気に解き放つ。
忌まわしき『災厄』の力。御し得ない力を使わなければ、目の前に現出しようとする力に拮抗できないのだ。
「ヴァーミリオン、ディザスター!!!」
アシュレーの身体から、『災厄の焔』が噴き出した。総てを朱に染める終末の焔。ヒトもガーディアンも世界も焼き尽くす煉獄が溢れ出す。
かろうじて指向性をもったその爆焔は床を粉砕し融解させながらロードブレイザーに迸った。
「―――インパルス!!」
力が炸裂する。破光が迸る。
アガートラームに集められた力の本流が真白の輝きとなって解き放たれる。
白と赤が交錯する。
総ての世界が二色に染まり――
――破光の力は災厄の焔を紙のように引き裂いて、
その先にいた紅の騎士をも呑みこんだ。
赤が白に侵食される。
壁面も、床面も、何もかもを総て打ち砕き、飲み込み、破壊の音さえも光の中に呑みこんで。
最後に静寂だけが残った。
――総てが静謐に沈んだ中で。
そこに立つ事が許された者は彼女ただ一人だった。
見る影もなく崩壊した回廊。
元の形を失った瓦礫の山が散乱する。
大剣を携えた彼女は、小さく瞑目して息を吐いた。
(余波とはいえ、一人も滅しえぬとは……)
目を開き一度だけ周囲を一瞥する。
吹き飛ばされて倒れる巨躯の男と、痩身の女。
壁際にまで弾かれ、崩れた柱に叩きつけられた少女と少年。
そして……"彼女"のよく知るもう一人の少女の姿は見えない。だが、死んではいないはずだ。
何よりも――
(『律』に縛られぬとはいえ、仮にも私と同質であるというのに……あるいはまだ扱いきれていないだけか)
最後に正面に目を向ける。
紅の瞳が見据える先。
閃光の中心部分に――青年の姿がある。
力を使い果たし、アクセスが解除された彼は、床に倒れたまま微動だにしていなかった。
だが、それでも。
アガートラームの閃光を直接叩き込まれてなお、彼は死を免れていた。
"彼女"――ロードブレイザーは、彼――アシュレーに一歩踏み寄る。
こつり、と静寂の回廊に足音が響いた。
それに反応したのか、アシュレーの身体が僅かに震える。しかし、その顔は動かない。
腕を動かそうとしているのだろうが、肉体は既に思考の指図を拒絶していた。
「――お前に"アナスタシア"は救えない」
「―――、」
再びアシュレーの身体が震える。
頭だけが僅かに動き、彼の翠の目がロードブレイザーの姿を捉えた。
しかしそれが限界。
顔を上げる事も、口を動かす事さえも、彼にはできなかった。
「仮に他の誰かにそれが出来たとしても、"お前にだけは"決してアナスタシアを救えない」
「―――ろ、」
「何故なら」
呂律が回らないアシュレーのうめきを遮り、ロードブレイザーはアシュレーの袂に辿り着き、手にしたアガートラームを握り締めた。
「何故なら――貴様が、」
アガートラームをゆっくりと振り上げる。
紅の瞳は昏い輝きを称え、その奥に僅かな感情の焔を揺るがせる。
『――貴方さえいなければ、"私"は"私"のままでいられたのだから』
「――――」
大剣を振り下ろす。
光が弾ける。
アシュレーは"アナスタシア"を見つめたまま、抵抗する事さえ……声をかける事さえもできずに、意識を断絶させた。
アガートラームを床に突き立てる。
刃を抱えたままロードブレイザーはその場にうずくまり、アナスタシアの貌に苦悶の表情を浮かばせた。
身体の奥、その存在が潜む裡なる世界が軋みを上げる。
走り抜ける激痛にロードブレイザーは胸部を掴んだ。
「例えこの身であっても、破邪の光は私を蝕むと言うのか……ッ」
身体を支えきれず、ロードブレイザーは床に手をついてうなだれる。
溢れる汗がアナスタシアの顔を伝い、床に落ちる。
その視界の外で、誰かが動く気配を感じた。
「……アナスタシア」
聞きなれた声に、ロードブレイザーはどうにか顔だけを動かしてその声の主を見やった。
アークインパルスの余波に巻き込まれたのだろう、身体を負傷したマリアベルの姿が、そこにある。
「……どうした、絶好の好機だぞ。お前の大願を果たすがいい」
「…………」
ロードブレイザー ――アナスタシアは自嘲じみた笑みを浮かべ、マリアベルに言葉を投げかける。
負傷をしているといっても先の戦闘には一切関わっておらず、アークインパルスの閃光にしても彼女の技量があればそれなりに対応できているはずだ。
少なくとも現段階において、最も余力を残しているのはマリアベルなのである。
しかしマリアベルは、動かない。
眉を寄せて、彼女らしからぬ動揺を浮かべた顔で、目の前にうずくまる"アナスタシア"を見やっている。
「……お前も、アシュレーと同じくアナスタシアを救いたいと思っているのか?」
「――ッ!」
びくり、とマリアベルの肩が強張る。
そんな彼女の姿を見て、"アナスタシア"はふうと微笑を浮かべた。
その表情はこれまでとは違う、柔らかく、そして儚げな顔だった。
「ならばお前が取るべき道は一つだ。今の内に――」
『――"私"を殺して』
「!!!」
その声は決して大きなものではなかった。
けれどその響きは静寂の回廊の総てにまで染み渡り、マリアベルの身体を打ち据えた。
「アナスタシア……?」
『――今ならまだ間に合う。今ならまだ赦してくれる。総てが手遅れになる前に――』
「アナスタシア、なのか……!?」
『――"私"が"私"でなくなる前に。"私"が"私"になる前に』
「アナスタシアッ!!」
『お願い、マリアベル。"私"を――』
――殺して。
少女の目の前には、親友がいた。
友人として付き合った日々は驚くほどに短い。
少女のそれまで生きてきた年月に比べれば、それはほんの刹那のような時間だった。
けれど一瞬の閃光は永く燻る灯火よりも激しく、力強い。
零れ落ちてしまうような儚い輝きは、何よりも失い難い。
もう逢う事はできないと思っていた親友。
もうその声を聴く事はできないと思っていた大切な仲間。
世界でたった一人になった少女が出会った、世界でたった一つの思い出。
かけがえのない思い出の中の友は、
受け入れがたい現実の中で、
残酷な言葉を紡いだ。
… … …
「……弱い」
目の前に蹲った聖女の姿を見ながら、私はそんな声を漏らしていた。
自分の力を見せる、と言っていた剣の聖女――アナスタシアは、英雄らしからぬ容貌に違わず、力なき人間達と同じような脆弱さだった。
大剣の使い方が全く判っていない。姿勢のとり方も素人同然。剣を振るうと言うより振るわれているような斬撃はただの風車にも等しく、連撃を放つどころか最初の一撃だけでふらふらと無様に姿勢を崩す。
最初はあまりの素人ぶりに逆に狼狽してしまったが、あくびが出そうな程の遅さで放たれた二撃目でもう見抜いた。
この女は、本当に素人なのだと。
それ以上戦う意味などなかった。いいや、戦うなどと言う話ではない。これではそこらの童が棒切れを振り回すチャンバラ以下だ。
ぶぅんと気の抜けた斬撃を避けて、懐に飛び込む。硬直したアナスタシアの腹部に掌抵を叩き込んだ。
それで戦いは終わった。
避ける事も受ける事もできないアナスタシアは、私の攻撃をまともに喰らって地面に転がり、手にした大剣を杖代わりに私の前に蹲った。
ゴーレムはおろか、レッドパワーもデバイスも出す必要がなかった。それほどまでに、この女は弱かった。
「……お主。本当に『剣の聖女』なのか?」
失望と侮蔑を込めて私は言う。アナスタシアはまだダメージを抜け切れていないのか、蹲ったまま苦しそうに咳をするだけだ。
「その剣に宿っておる力は飾りか? その剣から感じる力は、子供の玩具では済まされぬぞ。お主のような奴が持つには分不相応に過ぎる」
「……わかってるわよ、そんな事」
一つ大きな咳をして、アナスタシアは呟いた。掌抵を喰らった腹部を摩りながら、彼女は顔も上げずに言う。
「……私、弱いでしょ? 弱いわよね。当たり前じゃない。私はついこないだまで普通の女の子だったんだから」
「………?」
「これが"私"の力よ。"彼"みたいに剣を扱える訳じゃない。貴方達ノーブルレッドみたいに異能力や超越技術を持ってる訳じゃない。この剣――アガートラームの力がなきゃ荒野も満足に歩けない、力のないただの人間……それが『アナスタシア・ルン・ヴァレリア』なの」
アナスタシアは笑いながら一気にまくし立てた。その口調はどこか自嘲じみていて、私に語りかけていると言うよりは自分に言い聞かせているような表情だった。
――それはまるで、私が私の事を喋っているかのように、見えた。
「……なら、戦う事などやめてしまえば良いではないか。その剣を捨てて、力のないただの人間らしく、災厄から逃げておれば良いではないか」
私は彼女に告げる。
それはあるいは、彼女がそうしたように、自分に言い聞かせているのかもしれなかった。
「この剣は私にしか使えなかったの。何故か、なんてわからないけど。でも、私にしか災厄を追い払う事はできなかった。だから、私がやろうって決めたの」
災厄には誰も抗う事はできない。人間の中にもこれまで災厄に立ち向かった者が数多くいたらしいが、ただの一人としてそれを成し遂げる者はいなかった。
戦う力を持たない人間達は、災厄の襲来に合わせて僻地へと逃げ出し、災厄がその地を通り過ぎるまで息を潜め、怯えながら生きていく。
そうして災厄が何処かの地へと去った後に再び町に戻り、崩壊した町を申し訳程度に修復し生きていく。再び災厄がその地を訪れる、ほんの僅かな歳月を。
私達ノーブルレッドが災厄との戦いに奔走している間、人間はそうして命を繋いできた。
そしてこのアナスタシアも、そんな人間達の中の一人だった。
――今彼女が携えている力ある剣、アガートラームを手にするまでは。
「皆が『剣の聖女』なんて私を呼ぶの。救世の英雄だって、世界を救う聖女だって。でも、私はそんなの知らない。世界なんて知らない。私の知ってる世界は、私が今まで生きてきたタウンメリアと、一緒に生きてきた町の人達だけだから」
この場には私達しかいないからだろうか、周囲を憚らずにそんな弱音を吐く『剣の聖女』を、私はただ見つめている事しか出来なかった。
「でも、他の人ができないんなら、私がやるしかないでしょう? 私は誰にも死んでほしくないもの。私は私の友達や、町の皆に生きていて欲しいの。一緒に生きていきたいの。何もできず、何もせずに死んでしまうなんて、絶対にいや」
力のない自分に、戦うなんてできっこない。戦うなんて事はしたくない。
本当は、戦う事なんてせずに、逃げ出してしまいたい。
戦うのは怖い。死ぬのが怖い。
死にたくない。絶対に死にたくない。
生きていたい。この世界に生きていたい。
今まで生きてきたこの世界で、これからもずっと生きていたい。
――だから、と彼女は言う。
だから私は、この剣を取るのだと。
私の知るほんの小さな世界を守るために。
私の知るほんの僅かな人達を守るために。
そして何より、私がそんな世界で生きていたいから、剣をとって戦うのだと。
「……失望した? 世界を救おうとしてる『剣の聖女』の本性は、こんなちっぽけであさましい欲望 のために戦ってる弱い人間だって知って」
アナスタシアは虚ろに笑って、ようやく顔を上げた。泣いているのだろうか、私を見上げる真紅の瞳は、僅かに潤んでいる。
「………そうじゃな」
私は答えた。
本当に――失望した。
"アナスタシア"にではない。人々の幻想と依存に築き上げられた『剣の聖女』と、それを信じ込んでいた自分に、だ。
よくよく考えてみれば、この私自身こそ、世界のためなんてモノではなく、同胞と両親を殺された私怨で戦おうとしていたのだ。
そんな自分を棚に上げて、目の前の彼女を侮蔑する事など、できるはずがなかった。
なぜなら『剣の聖女』――アナスタシアは、その方向性こそ違えど、私によく似ていたからだ。
… … …
がらくたのような身体に渾身の力を込めて、立ち上がる。
ふらつく身体を支えきれずに、手にしたアガートラームを杖代わりにどうにかマリアベルに向き合う。
その仕草はあまりに人間らしく――そして『災厄』とは程遠い。
「――この身体を掌握するにはまだ刻が必要だ」
ロードブレイザーは小さく呟くと、掌に小さな焔を生み出した。
熱気を感じさせないその焔は次第に大きさを増し、ロードブレイザーを包み込むように逆巻く。
「アナスタシア……」
震えた声でマリアベルが呟く。
しかしアナスタシアはただ沈黙し、ロードブレイザーは囁くように言葉を漏らす。
「……"私"と"アナスタシア"と"お前"には刻を超越した縁がある。ここは退く……が、いずれ必ず我等は出逢う」
――その刻を『約束』の刻としよう。
焔を纏った魔神は謡う。
立ち竦むマリアベルの前で、アナスタシアの姿は焔に呑まれて消えていく。
「"彼女"の最後の願い、その刻に応えてもらう。それが総ての終わり。そして総ての始まりだ」
「ア―――」
消えていく親友に、マリアベルは思わず手を伸ばした。
そんな彼女の動きを見て、アナスタシアは消え去る最後の刹那、少しだけ――ほんの少しだけ、哀しく笑った。
――伸ばした手は、誰にも届く事はなかった。
――そして、マリアベルだけが残った。
一体どれほどの時間そうしていただろう。
彼女はゆっくりとした動きで歩き出した。
瓦礫にうずもれたティムやリルカを助け出し、巨躯のブラッドや長身のカノンをたった一人で動かして。
既に意識のない五人に申し訳程度の応急措置を施して、その場に座り込んだ。
膝を抱えて、目覚める気配のない五人をぼんやりと見つめていた。
彼女が一体何を思っているのか、それは彼女以外に知る事はできない。
しばらくの静寂の後――彼女は音もなく立ち上がった。
まぶたを幾度か擦り、そして五人をそのままに歩き出す。
振り返りはしなかった。
歩きながら時折目を擦りながら、それでも決して振り返らない。
彼女は歩き出す事を決意したから。
一人で往く事を決意したから。
世界でただ一人の少女は、世界でただ一つの思い出を胸に。
『約束』の刻に歩き出した。
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