――翌日。
 ブラッドとカノンは二人でアーヴィングの私室を訪れていた。
 リルカとティムはよほど疲労が溜まっていたのだろう、部屋の様子を見てみると二人とも泥のように眠っていた。
 アシュレーもまた、医務室から私室に移されたまま一度も目を覚ましていない。眠りに入るまでは裡に宿ったロードブレイザーの力の影響からか苦しそうであったが、今の所は落ち着いているようだった。
 実の所、ブラッドとカノンも疲れはまだ残っていた。しかし義勇兵として戦争に参加していたブラッドや、凶祓として旅を続けていたカノンは少ない時間で効率的に疲れを取る方法を身体で覚えているため、他の四人よりは幾分か回復が早かったのだ。
 食堂で軽く食事を取った後、アーヴィングの私室に至るまで、二人はシャトーのクルーを一人も見かける事がなかった。
 まだクルーが機能していた時は何人かとすれ違う事もあったのだが、今は全く人の気配がしない。
 主を失ったその屋敷は、まるで主と共にその命を終えたように、静まり返っていた。



クリムゾンナイト
Abysmal Vermilion


――5――



 シャトーの中でようやくクルーの姿を発見したのは、二人がアーヴィングの資料を調べ始めて少しした時の事だった。
 私室に遺された膨大な著書や資料を二人で手分けして調べていると、不意に部屋の扉が開かれて二人の女性が姿を現した。
 まるで示し合わせたようにブラッドとカノンが手にしていた本から顔を上げると、そこにはケイトとエイミーの姿があった。
「あ……」
「あれ? 二人とももう起きて大丈夫なの?」
 状況に一瞬狼狽するケイトと、すぐに反応を示すエイミー。
「ああ。幸い、俺たちは他の三人とは出来が違うらしい」
 どこか皮肉げにブラッドが言うと、カノンは僅かに口の端を歪め、そしてすぐに何事もなかったかのように手にしていた本に目を落とした。
「そちらこそ、一体何故ここに?」
 ブラッドが問い返すと、二人は一度だけ顔を見合った後、再びブラッドを見やった。
「私達に何かできる事はないかと思いまして。司令なら何か情報を残しておられるのではないかと」
「部屋に閉じこもってても、なんだかネガティブになるばっかりだしね」
「……そうか」
 ブラッドにはそう返す事しか出来なかった。
 化粧に隠されてはいるが、二人の目の下には僅かな赤みが差している事に気付いたからである。
 彼女達の言い分は確かに事実だろう。何か別の事をしていれば、裡にこもってしまう哀しみも紛れてくれるはずだ。
「クルー達もちょっとずつ帰ってきてるみたいだし。きっと皆戻ってくるよ、だって私達ARMSの仲間なんだから」
「……そうだな」
「エルウィンが先頭になって、戻ってきたクルーと一緒にマリアベルさんの捜索を開始しています。まだ完全に機能はしていませんし、何よりあの人は神出鬼没ですからあまり期待はできませんが」
「それで、何かあった?」
「―――」
「? どうかした?」
「いや、何でもない。こちらの収穫はまだ何もなしだ。分類はされてあるが、何しろ量が膨大すぎて手に余る」
 ブラッドは言い差した言葉を控え、手にしていた本を棚に戻した。
 ケイトとエイミーはこのシャトーの通信士である。
 であるので、効率を考えるなら二人はこちらで資料の発掘を行うよりもマリアベルの捜索に関わった方がもっている能力を発揮できるだろう。
 おそらく二人をこちらに回したのは、エルウィンの気遣いだろう。
 アーヴィングの資料に手を触れていれば、彼の残滓を感じられる。
 なまじ念話術(テレパス)に通じているが故に人の繋がりを簡単に割り切る事ができない二人には、そうして段階を踏ませた方がいい。
「俺とカノンが両側から調べている。君達は中央あたりから調べて欲しい」
「わかりました」
「りょうかいッ」
 ブラッドが再び作業に戻り、ケイトとエイミーは二人の間を見比べて――中央の棚より少々ブラッドよりの本棚に歩いていった。
「……あれれ。なんだかカノンさん読むの早い?」
 ふと自分の立った位置に気付いてエイミーが呟く。
 ブラッドはもうすぐ一番端の本棚を制覇しようとしている所だったが、逆側のカノンは既に二つ目の本棚の中央あたりまで進んでいるようだった。
 実際カノンを見てみると、彼女は本を開くと恐ろしい速さで項を流し、ほんの一分程度で書を棚に収めている。それは読んでいるというより、単に興味のない本をバラバラと流し見ているだけのような印象を受けた。
「もしかして速読術の使い手だったりするの?」
「……そんな大層なモノでもないが。内容を頭に入れている訳ではないし、そもそもこの辺は彼自身の活動とは無関係の著書のようだしな。おもに彼の趣味書と言った所だ」
「恋愛小説とかあったりして?」
「著名人の論文やら何やらしかない。残念だったな」
「むう……アルテイシアちゃんの所には結構あるのに」
「司令の妹君、貴族の令嬢をちゃん付けだなんて……」
「ケイちゃんはお堅いねー」
 そんな会話が差し込まれ、僅かに明るくなったアーヴィングの私室で、四人は資料の検分を再開した。
 確かに量は膨大であったが、図書館のように広大でもない屋敷内の一室、しかも四人もいるのだから目的のモノを探し当てるのにそれほど長い時間がかかる事もなかった。
 昼を回った辺りで、エイミーが「そういえば朝ご飯食べてなかった」と愚痴を零し始めたあたりで、ブラッドが手にしていた本を見ながら口を開いた。
「――あったぞ。コレだ」
 その声を契機に三人がブラッドの下に歩み寄る。
 彼は一番始めに彼の下に来たケイトに手にしていた本を手渡し、ついで本棚から何冊もの本を纏めて棚から取り出し、机の上に置いた。
「……07:24、175高地中央にて高質量の熱エネルギー励起を確認。同刻、カッシーニ突撃部隊及びアースガルズ防衛部隊との連絡途絶。ロードブレイザー、南から南東に転進のため、ベリアル機動部隊による挟撃作戦失敗。侵攻方向に防衛線を再配置……これは、戦闘記録?」
「――恐らく、『焔の災厄』の記録だな。マリアベルが翻訳したのだろう」
 四人は各々書に目を通していく。
 そこには、最初期――ロードブレイザーの発生時点の事と、『剣の聖女』が現れた最後期の事は書かれていなかったものの、その間におけるノーブルレッド達とロードブレイザーの戦いが克明に記されていた。
 しかしそれは、『戦闘』記録と呼べるようなものではなかった。
 記された記述を締めるのはそのほとんどが『敗北』『失敗』『全滅』。幾度かはかろうじてロードブレイザーの動きを止める――あるいは鈍らせる事に成功しつつも、世界を灼かんとする『災厄』にに対して何ら有効な対抗策を示す事はできなかった。
 読み進める毎に散漫になってくる戦力展開と交戦時期がノーブルレッドの戦力の疲弊を如実に物語っている。
 初期において戦列をそろえていた諸侯は戦いの中で命を落とし、その記述から消えていく。
 記録としてそれを見、事実としてそれを体験し、そして人間の言葉に翻訳したマリアベルは、一体どんな気持ちでこの書を綴ったのだろうか。
「……伝承の通り、『聖女』が現れるまでこの世界には『災厄』に対抗する術がなかったんですね」
 資料に目を落としながらケイトがぽつりと漏らした。エイミーも俯いたまま本を読み進めている。カノンもまた、顔にこそ見せないものの暗澹とした感情が心の内に沸いているのを感じていた。

 これが、『焔の災厄』。
 伝承にのみ語られた御伽噺ではなく、確固として実在した脅威。
 そして、その災厄によって荒廃したこの世界に、再び蘇ったモノ。
 唯一対抗しえた『聖女』さえも、今はこの世界にいない。それどころか、その『聖女』そのものが『災厄』なのだ。
 このシャトーにいる人間たちとて、侵食異世界という脅威を乗り越えてきた者達である。
 大きな犠牲を払いはした。けれど、その脅威を退けた自負は、確かにある。
 ――だが。
 だが、それでも。
 目の前に記された圧倒的な脅威は、この世界に刻まれた脅威の傷跡は、総ての人間に対して絶望を齎すに充分だった。

「……本当にそうだろうか?」
 静まり返った部屋の中、ブラッドだけがそんな声を漏らした。
 振り向く三人を尻目に、彼は黙々と書を読み続ける。ある時は読み飛ばし、ある時は記述に目を止め、そして時系列を下り、あるいは遡り、『焔の災厄』の経緯を読み続ける。
「どういう事だ?」
 訝しむカノンがブラッドに声をかけた。
 彼は書から目を離さないまま、重苦しい調子で口を開く。
「………マリアベルは気付かなかったのか? アーヴィングもか? いや、『災厄』を縁に持つが故に気付かなかったのか……?」
「おい、ブラッド」
 彼の言葉の真意が読み取れず、カノンは眉を顰めて声を荒らげた。そこでようやく気付いたかのように、ブラッドは顔を上げて三人を見やった。
「対抗策、と呼べるようなものではないかもしれない。だが、この戦いには妙な所がある」
「……?」
 ブラッドに言われて三人は再び書に目を通してみた。だが、その描かれている記述が別段変わるわけでもない。ロードブレイザーの圧倒的な力の前に敗北するガーディアン、ノーブルレッド、そして人間達の惨状が見て取れるだけだ。
「内容ではない、日付だ。いや、内容も多少は関わるか……戦いの結果と、『焔の災厄』が続いた期間を見てみろ」
「………」
 ブラッドに言われた通り、『焔の災厄』の期間を調べる。
 始まりの時期は定かではないが、余分な描写を覗いた戦闘記録は一つ一つの戦いはさほど長大ではない。しかし、幾つもの書に跨って記録が綴られている以上、『焔の災厄』における闘争は永きに渡って続けられた事は確かである。
「……?」
「すみません、私にもよく……」
「……一体何が言いたい」
 ブラッドの言葉の意味を理解しかねて、三人は訝しげな視線を彼に送った。
 彼は顎に手を添えて、静かに書を机の上に置く。
「記述の通り、『焔の災厄』は永い間続いていた。そして、ロードブレイザーに対してファルガイアは何ら有効な打開策を見出せず、敗北を続けていた。だが――」
 一度として画期的な勝利を掴む事無く。
 敗北に敗北を重ね、総てを焦土に焼き尽くされて。
 永い永い間災厄に世界を蹂躙されて。
 それでも、何故か――
「――何故"世界が滅びていない"んだ?」
 言葉にされて初めてその事実に気付き、三人は表情を固まらせた。
 ガーディアンの力を持ってしても、ノーブルレッド達のロストテクノロジーを持ってしても、決して倒しえない『災厄』。
 それほどまでに圧倒的で、超越的な暴威が存在していたというのなら。
 膨大な記述になるまでもなく、『聖女』の出現を待つ事もなく、とうに世界など滅んでしまっているはずなのだ。
「記述に誤りがあったのか? それとも、災厄そのものが――」
 言いかけてカノンは頭を振る。
 誤った記述をした所で何の意味もない。何よりもその災厄を現実として経験しているマリアベルがいるのだ。
 『焔の災厄』が数百年前に訪れたのは紛れもなく事実であり、そして永い戦いを続けていた事も変えようもない事実なのだ。
「ロードブレイザーが世界を滅ぼせなかった要因が何かあったのかな?」
「もしそれがあるのなら、何らかの記述があるはずだし、ここまで敗北を繰り返している道理がないでしょう?」
「うぅ」
 ケイトの言葉にエイミーが頭を抱える。
 だが、エイミーの言葉は真実の一端を示しているようにブラッドは感じた。
(世界を滅ぼし得るだけの力を持ち、それを成し得るに充分な時があったのだ。にも関わらず、現実に滅ぼす事ができなかったのならば……滅ぼしえない要因があるという事こそ道理)
 ノーブルレッド達の記述に存在しないのなら、逆説的に要因はノーブルレッド達の認知の外にあるはず。
 人間達にその要因があったのだろうか? 例えば――そう、現代におけるARMSのように、『聖女』ではなく歴史に記される事のなかった者達がいたのだとすれば。
(――いや、それはない。目に見える要因ならばノーブルレッド達の記述にも残るはず。事実、俺達(ARMS)は既に世界の全員に認知されている)
 誰の目にも留まる事無く、誰にも認知される事無く、『災厄』から滅亡を妨げた要因。
 決して目に見ることはできないが、確かにそこにあるモノ。
 そんな力があるとするなら――
「あ……皆さんここにいたんですか」
 高い声が響いて、四人は部屋の入り口に目を向けた。
 プーカを引き連れたティムは机の上に乱雑に積まれた本をみとめると、昨日までとは比較にならないほど軽い足取りで四人の下に歩み寄ってきた。
 ブラッドは、そんなティムの姿を見つめながら、低く呟く。
「そう、ガーディアンだ」
「……?」
 唐突にそんな事を言われたティムは不思議そうにブラッドを見つめたが、彼は一度頭を振って再び本に目を落とした。
 本を幾度となく取り替えながらブラッドは目的の記述を探す。
 伝承によれば、『焔の災厄』と闘ったのは人間やノーブルレッドだけではない。世界を構成する守護獣、、ガーディアンも共になって災厄に立ち向かったとされる。
 果たして、その記述は存在した。だが、それは彼の期待したものではなかった。
 確かにガーディアンもノーブルレッドと共同戦線を敷いてロードブレイザーに立ち向かった事は記されている。そして伝承の通り――今新しく知った事実だが、ガーディアン達はノーブルレッド達の滅亡に先んじてその力を失ってしまったらしい。
 ガーディアンの敗北を機にノーブルレッド達は目に見えて勢力を減退させ、彼等だけの戦線を構築(勝利に結びつく事は終ぞなかったが)するまでに多くの時を要した。
「……だめだ。長すぎる」
 ブラッドは行き詰って頭をがりがりと掻き毟った。ガーディアンが力を失って、記録の最後に至り、そして記録に描かれていない『聖女』の誕生と災厄の終結までゆうに年単位の期間がある。
 ガーディアン達の力が滅亡回避の要因ならば、それを失ってなおそれだけの間世界が存在できていられた訳がない。
「――ティム。いや、プーカ」
「ダ?」
 それまで黙り込んでいたカノンがふと声を上げた。
 ティムの肩に座り込んでいたプーカはふわりと浮かび上がり、カノンの手前まで移動した。
「お前は、『焔の災厄』の事を何か知らないのか? その時の記憶でもいい」
「……知らないのダ。プーカは本来『個』を持たない存在だから、しかるべき時が訪れる毎に生まれ変わるのダ。長い年月の存在とその記憶は『個』を生み出してしまうから」
 小さな耳を僅かに伏せて、プーカが漏らす。今代において生まれて初めて『個』を持ったプーカは、カノンに言われてそれまでの自分の存在というものを思い返す。それは意味のない事だったが、そんな意味のない事を考える事が出来る『自分』がいる事に、僅かな喜びを感じる。
「しかるべき時、か。では災厄の時代にもプーカはいたのだろうか?」
「……多分。プーカは知らないけど、きっとプーカじゃないプーカがいたはずなのダ」
「………」
「カノン?」
 彼女はブラッドの声には応えず、手元に開かれたままの書に指を添える。特に意味もなく、そこに記された記述に添って指を動かし、そして顔を上げた。
「『焔の災厄』は世界を滅ぼすほどの災禍だった。それこそ今代にして襲来した侵食異世界にも劣らない程の。ガーディアンは戦いに敗れやせ細り、世界は滅亡に瀕していた。ならば――その当時『柱』はどうしていたのだ?」
「―――ッ!?」
 ブラッドは頭を殴られたような衝撃を覚えた。
 かつて生贄の祭壇を訪れた時、ファルガイアの統合意思たるガイアは今代の『柱』たるティムに命を要求した。
 『柱』が己の意思によって命を捧げた時、その力はガーディアン達を活性化させ迫る災厄を討ち払う事を可能とする。
 世界規模の災厄に対して構築された迎撃機能(カウンターガーディアン)
 ノーブルレッドの記録には当然ながら存在していない。それは当然だろう、もしそんな力が発動していれば、これほど膨大に敗北を記録するまでもなく『焔の災厄』は終結しているからだ。
 ではなぜ未曾有の事態においてその機能が働かなかったのか?
 当時『柱』が存在していなかった?
 それはない。災厄の発生当時に存在していなくとも、戦いの続いた年月を考えれば、不死性を持つガーディアン・ノーブルレッドはともかく人間は何代もの流転を繰り返している。
 今代のティムのように、『柱』の礎となるのを拒否したのだろうか?
 それならばいくらか可能性はあるかもしれない。だが、そんな前例があったというなら、生贄の祭壇にてティムが拒否の姿勢を示した時のガイアの狼狽ぶりが腑に落ちない。
 腑に落ちないが――ここまで先が見えていれば話は早い。
「生贄の祭壇に行ってみるか。ガイアならば俺達の疑問にも答えてくれるはずだ……ティム、ガイアとの接触はできるのか?」
「え? それは多分できると思いますけど……あの。ボク、来たばっかりで話が全然わからないんですが」
 唐突に振られた言葉にどうにか答えながらも、おずおずと正直な感想を述べてみたティムに、ブラッドは一瞬だけ呆気にとられたような顔をして直ぐに表情を引き締めた。
「……そうだったな。この件は全員が起きてから改めて話をしよう。まだ他にも情報があるかも知れん」
「はあ……だったらボクも手伝います。この机の資料を調べればいいんですか?」
 積まれた書物の束を手に取ろうとティムが手を伸ばすと、エイミーが慌ててそれを止めようと腕を伸ばした。
「あ、それはもう検分終わっ――」
 互いに差し出した手がぶつかり、もつれて更に書物にぶつかり、そして書は派手な音を立てて机から零れ落ちた。
「もう、何やってるのよエイミー」
「えー、私のせいなの〜?」
 ケイトが溜息をつきながら本を拾おうとしゃがみ込む。カノンは小さく頭を振って本棚に向き直り、ブラッドも一つ息をついてからケイトを手伝って本を広い始めた。
「………?」
 ケイトは床にぶちまけられた書物の中から、それまでみた事のない装丁の本が混ざっているのに気付いた。
 マリアベルの記した災厄の記録とは意匠の異なった本である。ブラッドが纏めて引き出した時に、床に落ちたのだろうか。この私室は下級とはいえ貴族らしく絨毯ばりで、一冊の本が落ちても気を止めるほどの音が立つ事はない。
 ケイトは片手で散らばった本を広いながら、開いた手で器用にその本をめくる。
 数項ほどの白紙の後、ようやく記述が見つかった。インクの具合から行くと、さほど日にちが経っていないようだ。
 手書きで記された文章を読んだ瞬間、ケイトの身体が強張った。手にしていた本を再び床に落とし、それでも彼女は眼にした記述を凝視している。
 本の落ちた音と、ケイトの様子に気付いたのかブラッドは彼女の見る本を見下ろす。
 そこに記された文は、彼の良く知る人物の筆跡だった。
 それはこの私室の主であり、そしてもう二度とこの私室を訪れる事のない人物。
「司令……」
「――アーヴィング」
 二人は同時に呟いた。
 それを聞いた三人が二人の周りに集まり、床に開かれた本を見やる。
 そこには、文通を嗜んでいた彼に相応しい整った文字で、こう書かれていた。

 

 

『――いつか来るべき刻のために。
 しかし願わくば。
 この記録が、総てが忘れ去られた時に見つかり、
 過去の愚かな罪人の、その意味を失った告白とならん事を』




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