全てが存在し、そして全てが消失している、そんな場所で。 何かが生まれ、何かが滅んでいく。 誰もがそれを知り、誰もがそれを忘れていく。 全ての輪廻のなかで、運命は繰り返される。 悲しみと、怒りと、哀惜と、愛情と、喜びと。 数え切れない、複雑な感情そのままに。 幾度となく繰り返し、それでも決してやめることはありえない。 全ての歴史は、泣顔と共に存在した。 全ての事象は、笑顔と共に存在した。 生まれ来る者の持つ、希望と。 滅びて逝く者の持つ、絶望と。 何かにしがみ付き、醜くも果てのない未来を望みながら。 『人間』は常に矛盾する想いを抱えながら、生きている。 駆けるように、過ぎ行くときを思いながら――。 ![]() 第22話 旅の男 美しい茜色に染まる街並み。道行く人も少しずつ変化し、子供や若い恋人たちは少しずつ姿を減らし、変わりに渡り鳥や物騒な男達の姿が目立つようになって来る。 そんな昼間とは一味違った賑やかさを持つ夕暮れの街を、一人の少女が歩いていた。 瑞々しさを湛える髪を風になびかせ、目立たぬ色のマントを羽織るその姿はこの辺りではよく見かける、新人の渡り鳥と同じ印象を受ける。この街に暮す者なら誰も今更気にしたりはしない。 しかし、その顔を見れば誰もが少なからず訝しがるだろう。沈み逝く太陽の眩しさに目を細め、道行く人々を見ては柔らかな微笑みを浮かべるその穢れを知らぬような年若い少女には、過酷な旅路を行く為の旅装など、似つかわしくない、と。 そしてまた、ある程度以上の経験を持つ者なら気づいたかも知れない。少女の微笑みが、深い絶望を知り、果てしない希望を持ち、そして何かを決意をした者ののみが持ちうるそれである事を。 しかしその本人は周りが何を考えているのか等知る事もなく、少しずつ冷え込んできた夜の砂漠の冷風を小さな身体に受けながら、次第に暗くなってゆく街を歩いていた。 「おい、そこの嬢ちゃん! どうだい、俺たちに付き合わねぇか?」 「夜の一人歩きは危険だぜ〜?」 横合いからからかい半分に声をかけ、ひゃははは、と下品な笑い声を上げる男達に冷たい視線を投げかけ、リリスはさっと足を速めた。 流石にこれぐらいの時間になると、どこからともなく下らない輩が出てくる。リリスは面倒に巻き込まれる前に適当な宿を見つけるつもりだったのだが、買い物がてらの見物で予想以上に時間がかかってしまい、気づけば「それなり」の宿のほとんどが満員状態となってしまっていた。 このままでは宿無しで野宿となる。その前になんとかしなければ、と街を歩き続ける内に、リリスはいつのまには人気の少ない場所へと迷い込んでいた。 リリスは微かに眉を顰める。風は次第に冷気を孕み、マントを着ていても尚体温を奪ってゆく。 「……はあ。もう宿は残ってないのかなぁ……」 歩く人影ももはや疎ら、街の住人は自分達の家へと帰り、商人や渡り鳥達は昼間の内に早々と宿を取って今頃は酒場で暖をとっている頃合だろう。 彼女とて、ここまで遅くなるつもりはなかったのだが……。 (あんまり街の奥に行くと、変なのが多いって言うし。この辺りで宿を決めたいんだけど) 「それなり」の宿が期待できない以上、「それ以下」か「それ以上」を狙うしかない。「それ以上」では値段が違いすぎるため、「それ以下」の宿を探すしかない。……最も、金銭の問題ならば全く関係はないのだが。 もはや最低の宿でもしかたないか、と思っていた所に、とある酒場兼宿屋が目に付いた。 大して派手なわけでもなく、また地味なわけでもない。それなりに古いが、汚れきっているわけでもない。奥まった界隈にある宿屋にしてはまぁ上等で、酒場としても流行っているようだ。扉からひっきりなりに歓声が上がっている。 「…………?」 なぜその宿が気になるのかと、小さく首をかしげる。一見しただけでは、どこにでもある宿と何ら変わりがあるようには見えないのだが、とにかく近くまで足を進める。すると、その店のドアから光と歓声がひっきりなりに洩れているのがはっきりとわかった。そして、怒号も。 まだ多少早いとはいえ、もう充分『夜』の領域だ。酒場での乱闘なら、決して珍しいわけではなく、寧ろ当然と言える。だが、何か――気になる。 (まぁ、入って見ればわかる、か。運が良ければ部屋が空いてるかもしれないし) そう考え、リリスはゆっくりとドアを押し開いた。 ***** 酒場へと一歩足を踏み入れた途端に「わぁっ」と一際大きな歓声と怒号とが上がり、同時に何か重いものが倒れる音がした。ガラスの割れる音と、女達の嬌声。 「いいぞ〜!」 「やっちまえ〜!」 「負けんじゃねえ、さっさと潰しちまえ!」 酔ったようにろれつの回らない声。それらのいい加減な応援は、ほとんどが酔っ払いの声によるものだ。自分が楽しければいい、と考えて入るような男達。 入った途端にむせ返るような煙草と酒の匂いが感じられる。むわっとして、心なしか酒場全体が白く見えるほど充満している煙草の煙。汗臭い男の体臭も感じられる。 それらに眉をしかめつつ、リリスは軽く背伸びをするようにして辺りを見渡した。 テーブルに座る者達は誰もが楽しそうな表情を浮かべ、カウンターの方へと身体を向け、酒と煙草とを手に、つまみを上手そうに平らげている。別のテーブルでは、何かをかけていたのだろうか。大量の金を数えている数人の男達。その合間を縫うようにかけまわる、給仕の女。 それぞれが自分達だけに夢中になっているため、酒場に入ってきた若い世間知らずな娘にちょっかいを出すものはいなかった。多少、ちらっと顔を向けては興味深そうな表情を浮かべる者もいないではないが、それもすぐに興味を失せたようにして顔を背ける。 ――リリスにとってはありがたいことだ。 誰もが興奮してひっきりなしに叫ぶため、一体何があるのかもわからない。ただ、どうやら騒ぎの元はカウンターの前らしい、とリリスは辺りをつけ、前に経ち塞がる男達の間に身を潜り込ませていった。 「ちょ、ちょっと通し……って、わぁっ!?」 少し前に行くだけのつもりだったのだが、込み合う男たちに押され、気付けば小柄な少女は最前列まで流されてしまった。 その視界に移ったのは、殴り倒れて切ったらしい唇からの血を拭っている渡り鳥らしい男と、いかにも、といったような乱暴そうな筋肉質の男だった。 少しは腕に自信があるのか、余裕そのものといった表情を浮かべている。つい今しがた渡り鳥の男を殴ったのであろう拳を、さも汚い物でも触ったかのようにふってみせている。 それとは逆に、殴られたらしい男は小さく血の混じったツバを床に吐き棄て、静かな眼差しを上げる。一見しただけでは、ひょろっとした中年、としか感じられない。丈夫そうな旅装を着ている所から見て、ほぼ間違いなく渡り鳥家業をしているのだろう男。 この状態を見れば、幼い子供でも何があったのか、理解できるだろう。 (ふぅん……よくある乱闘、ね。ばかばかしい) ゆら、と立ち上がりかけた男を、筋肉質の男が強く鳩尾を蹴り上げる。「ぐふっ!」と小さな声を洩らすのに喜悦の笑みを浮かべ、再び倒れ臥した男を幾度となく蹴りつづける。 そのたびに湧き上がる、歓声。 リリスは不愉快そうに眉をしかめた。 「ほら、いい加減諦めな! さっさと有り金全部とそれを寄越せば許してやるっつってんだよ!」 「……ちょっとお客さん、あんまりこう言った騒ぎは……」 「安心しろって! どうせすぐ終わるからよ」 威張り散らした声を上げる男に、この宿の店主らしい男が声をかける。しかしそれをあっさりと無視すると、男は再び渡り鳥を強く蹴り上げる。 そのたびに僅かに転がっていく渡り鳥の男を取り巻くように、立ち上がった観客が酒や煙草を片手にやんやと騒ぎ立て、蹴り続ける男をあおる。 「……くッ……」 転がった拍子に、男の顔がちらりと見えた。 そろそろ中年に差し掛かるかといった年齢の男で、確かに見ただけでは全く強そうにも見えず、また男の蹴りに大して反撃さえもしようとしない。 聞こえてきた話から察するに、この渡り鳥の持ち物をあの筋肉男が欲しがって騒ぎを起こした、といったところだろう。理由も恐らく、酷く適当なもの。もしかしたら、ただの言いがかりなのかもしれない。 ぐっと力を込めて渡り鳥の手を踏みつける。何処から見ても、勝敗は既に決まりかけている。それをわかっていながら、なお無抵抗の相手に対する暴力を楽しんでいるらしい。そして、それをはやしたて、賭けをする者達。止めようともせず、乱闘を無視する者たち。 関わろうとしない者を、薄情だとは思わない。それぞれに理由があるのだろうし、単に興味がないだけかもしれない。止めない代わりに、関わらないだけ。 だが、完全に無抵抗となった相手に対して暴力を振るい、さらにそれを楽しむ。それだけはどうしても、リリスに強い不快感を与えた。 (……最低の輩、か) すぐ傍にたつ少女の思いに気づく事なく、その隣に立っていた男は楽しげな笑い声を上げながら再び渡り鳥を蹴りつけた男に向かい、声を張り上げている。 「おおい、ビーガス! 俺はお前に三百も賭けたんだからな! さっさと終わらせろよ!」 「おれは四百だ!」 「さあさ、後賭けるやつはいないか?」 それに便乗するように声を上げ、手にいくばかの硬貨を握って上に突き出す男達。 それを夜の砂漠の風よりも尚冷たい眼差しで見やっていたリリスの耳に、微かな声が響いた。 「……誰、が……」 辺りを包み込む歓声や怒号にかき消されそうな、小さな声。とぎれとぎれなそれは、ちょうどリリスの真正面の位置に倒れた男から零れたものだった。 リリスの眼差しと、渡り鳥の男の眼差しとが一瞬重なる。 それは、諦め、負けを認めた者が浮かべるような表情ではなく。男は自らに自身を持ち、また諦めない意思の光を瞳に宿していた。 軽く目を見張るリリスと合わさっていた視線をすぐに外し、自分の横に立つ男を見据える。そんな一人の渡り鳥の姿を目にして、この場に来て初めて、リリスの表情に笑みが浮かんだ。 (へぇ……面白い) そんな小さな事に気付くはずもなく、少女の頭上では相変わらずに男達が札を手にして賭けを続ける。目の前では、足を持ち上げる男から必死になって転がって蹴りを避ける。そのたびに、観客となった野次馬から歓声があがる。 「ビーガスに五百!」 「おいおい、それじゃ賭けにならんだろう」 「それもそうか!」 困ったように笑う胴元に、金をかけた男達からどっと笑いが零れる。その瞬間に、突如として凛とした高い声が響いた。 「そこの渡り鳥に、千」 今の今まで、酔っ払った男たちの歓声が響いていた酒場が、僅か一瞬でしん……となった。 ビーガスと呼ばれていた男が、男を殴ろうと胸倉を掴んでいた手を離す。床に倒れこんだ男を無視し、ゆっくりと己の顔をその声の主である少女に向け、怒りの篭った視線を投げかける。 「おい。……今のは、てめえか?」 予想どうりの反応に内心で笑みを浮かべながら、表面では酷く真面目な表情を浮かべてリリスはまっすぐにビーガスを見返した。 わずかに時間を空け、ゆっくりと口を開く。 「……そうよ。そこにいる渡り鳥さんに、千、賭けると言ったの」 言葉はわかるでしょう?とでも言うかのような少女の言葉に、回りに立った男達までもがはっきりとその表情に怒りを浮かべる。 リリスの周りから、ゆっくりと人が引いていく。自然、リリスとビーガスという男、そして倒れた渡り鳥だけが残る。 「それは、俺が負けるということか?」 「ぐっ!」 苛立ちを押さえもしない声で尋ねたビーガスの足が、倒れていた渡り鳥の背を思い切り踏み締める。 その様すに不愉快そうな表情を浮かべたリリスを見て、ビーガスと呼ばれていた男の顔が更に険しくなっていく。 「生意気な事をぬかすじゃねぇか……ガキが」 「そういう風に聞こえた? 私はただそこの人に千賭ける、と言っただけよ」 全く恐れもせずに立ち続けるリリスを見据え、男は怒りの篭った眼差しをゆっくりと足元の男へと向ける。 「……まぁ、いい。酒場のルールも知らんようなお嬢ちゃんだ。大損して痛い目見るといいさ」 「……だといいけどね」 大人の余裕とでも言いたいのか、悠然とした足取りで怒りを押し殺した男は先の渡り鳥に向かい合う。再度鳩尾の辺りを蹴りつけ、乱暴にカウンターへと叩き付ける。 それを見ながら、リリスは誰にも聞こえないようにそっと呟いた。 その視線は自分が賭けた渡り鳥に注がれていた。彼は驚いたような表情をして少女を見つめており、そして小さな――注意深く見なければ決してそれとはわからないような笑みを浮かべる。 ゆっくりと背中をカウンターに押し当てながら立ち上がる渡り鳥。身体の向きを変える、ビーガス。 「さて。……そろそろ諦めたか? あぁ?」 「冗談じゃ、ない……」 「そうかい……」 二人は再び対峙した。 優位を誇る男は怒りを押し殺した表情で。そして明らかな劣勢に立つ渡り鳥の男は、それとは全く逆に余裕の表情を浮かべて。 「なら、くたばれぇッ!」 「――――!」 大きな怒号を発しながら拳を繰り出した男に、渡り鳥はさっきまでの動作が嘘のように懐から小さなカードを取り出し、何事かを呟きながらそれを放つ。 それで、決まりだった。 渡り鳥の放った小さな魔法の光が飛び出し、向かいくる拳よりも先に男を包み込む。 そして―― 男の目の前に迫った拳が勢いを失い、ゆっくりと力を失って倒れていった。 一切の物音が絶える。沈黙だけが支配する中、立っていたのは渡り鳥の男だけだった。 誰もが驚愕して立ちすくむ中、あまりにも無造作と思える仕草で先ほどの少女が倒れた男に近寄っていった。無言のまま、男の手首に手を沿え、様子を見る。 そんな動作をするリリスに、観客だった男達の中の誰かが怯えた声で尋ねる。 「お、おい……まさか、死んだのかっ?」 「まさか。寝てるだけよ。……全く、情けない」 「当然だろう。これはただの眠りの魔法だ……」 小さく呟いた最後の言葉に答えるように聞こえてきた声に、リリスははっと顔を上げる。へたり込んだ渡り鳥の目と、リリスとの視線が合う。 ふ、と一瞬だけ笑いあうと、リリスは立ち上がって堂々とした態度で周りを見渡した。 「さて、賭けはあたしの勝ちね。文句ある?!」 挑発的なその言葉に気圧されたように、男たちはめいめいの席へと座りなおす。ガタガタという椅子などがたてる音と共に、再び話し声が洩れ出す。カウンターの中で、店の主人らしき男が酷く安堵したような溜息を洩らしていた。 しっかりと賭けの元締めから分配を受け取ると、リリスは疲れ切ったかのように未だしゃがみこんでいる渡り鳥に近寄り、手を差し出した。 「立てる?」 「……ああ」 そんな少女を見上げ、男はゆっくりと笑みを浮かべた。殴られた頬が赤く腫れてたが、思っていたほど顔に怪我はないようだ。――最も、散々蹴り続けられた身体の方は無事とは言えないかも知れないが。 ゆっくりと上げてきた手を掴み、静かに立ち上がる手伝いをするリリスに、男は微かに苦痛の表情を浮かべながら、小さく息を吐き出した。 「……助かった。もう少しで、気絶しちまう所だったんだ」 「別に、何もしてないよ」 立ち上がった二人に恐る恐ると行った様子で近付いてきた店主に「弁償はあの男に」と、倒れ臥した男を指差して告げると、そこから僅かに離れた席へと腰を下ろした。 麦酒と果実酒、そしていくらかの料理を注文し、リリスは改めて男と向かい合った。 「さっきのだけど。あなたが自分の力で勝ったんでしょ? 私が何もし無くても、勝てた見たいだしね。でも結構いい小銭稼ぎになったから、奢るよ。その怪我に響かない程度に、だけど」 楽しげに片目を瞑って見せたリリスに、男は改めて楽しそうな笑みを浮かべた。 そして、再びゆっくりと――今度は男の方から手を差し出した。そして、リリスはその手を握り返した。 「ありがたい。俺はケヴィンだ」 「私はリリス。よろしく」 ――それが、二人の出逢いだった。 ***** 明るい光に満たされただけの空間。そこに、彼女は漂っていた。 長く美しい輝きを持つ群青色の髪が揺らめき、その身体を包み込むように広がっている。軽く閉ざされた瞼が、彼女が深い眠りにいることを知らせていた。 彼女は、深く長い眠りについていた。 長い、長い役目を終えて新しい生を歩むための、一時の眠りに。 しかし、その彼女を見守る紫紺の獣は、苦渋を飲み込むかのような表情でそこに存在していた。 本来なら彼女の存在はとっくに消え、新しい生命となっていたはずだった。 それが、何者かに妨げられている。 邪なものではなく、彼の眷属と、そして彼らが守るもの達とに。そして『彼ら』と、大いなる運命と呼ばれる、何物かによって。 長い長い時の中で、彼女の精神は傷つき、疲労していっている。 このまま彼女を休ませたい――しかし、運命は彼女のちからをも必要としていた。 だからこそ、彼女は眠り続ける。 再び運命が――「彼ら」が『剣の聖女』を必要とするときまで。 |