暖かな日の光を感じる。優しい、空からの恵みだ。
 さわっと身体を優しく撫でる風は、たくさんの花の匂いを含んでいる。
 ――ああ、なんだろう……気持ち良いな……。
 彼女はゆっくりとこわばっていた頬を緩めた。
 ここはとても安心できる。ここなら安全だ。
 そう思ったとき、やっと微かな疑問を感じる。
 ――わたしは……どうしていたの?
 何があったのだろう。こんな暖かな空気は、シェルジェにはない物だ。
 そう考えた時、頭に微かな痛みが走る。
 何故だか……とても、悲しい事――何かとの別れがあったような気がする。
 それを思い出せぬまま、彼女はいつものように大きく空気を吸った。
 そして、あることに気付くと彼女は驚いて目を開いた。
 ――魔力が、マナが……違う?
 それは、微かな差異。根本より生まれた、ごくごく小さな差。
 彼女だからこそ、感じ取れた物。
 彼女でなければ、わからなかったはずの物。
 彼女は戸惑いつつも、辺りを見渡した。
 そこは未だかつて彼女の知ることのなかった『世界』。
 ほとんどの物が同じ。でも、確かな違いが存在した。
 そこは、ガーディアンの守護下にない世界であった。




そして始まるは戦 全ての先駆けなりし事 これより始まるは絶望 その色濃い日々――
第37話 シェルジェ攻防戦(5)




(おねぇちゃん……? どこに行くの?)
 深い霧の中、幼い少女が泣きべそをかきながら歩いている。まだ10にも満たない少女だ。
 柔らかな栗色の髪をぼさぼさにして、必死になって何かを探しているようだ。
 緑色の瞳を悲しげな色に染め、ただひたすらに何かを――誰かを、捜し求めている。
 目の前には、ひとつの人の影がある。
 薄ぼんやりとした影。それは今にも、霞となって消えてしまうそうなほど儚い。
(ねぇ、おねぇちゃん……わたしも連れてってよ。おいてかないでよぅ)
 ぐずぐず、と鼻を鳴らして懇願してもその影は振り向かない。振り向く事は無い。
 ――駄目よ。私は遠い所へ行くの。もう帰れないのよ……。
 ひっそりとした沈黙と少女の鳴き声の中、小さな声が響く。悲しみと絶望を込めた声で。
 その声のあまりの冷たさに、少女はびっくりして目を見開く。自分の知っていたあの人は、決してこんな声を出す人ではなかった。
(どうして? ねぇ、なんで帰れないの? ままとぱぱのところに帰ろうよぅ!)
 ――だって、私はもうここにいないんだもの。
 急に、霧がさっと晴れていく。真っ白な空間の中で、その影のあたりだけ、闇が集まっている。
 茶色と栗色の中間ほどの色合いの髪。それは腰の辺りまでゆるやかに流れている。黄緑色の服。
 あの時も、この人はこの服を着ていた……。
(なんで、いないの? おねぇちゃんはここにいるのに)
 ――わかっているでしょう? わたしは、あなたの所為で帰れないのよ。
 びくっと身体をすくませた少女に、その影は振り返って見せる。
 幼い少女に良く似た緑色の瞳。それは少女のものよりも若干色が淡く、宝石のように輝いている。
 ただその瞳は氷よりも冷たい光を宿し、強く炯炯と輝きながら少女を見つめる。
 ――あなたの所為よ。あなたの、所為で……。
(や……いやぁ……いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!)


*****


「……ルカ、リルカ!」
「――ッ!!」
 リルカは目を見開くと同時にベッドから飛び起きた。体が汗でびっしょりと濡れている。
 はぁ、と大きく息を付いてから胸元をつかんでいた手を離し、あたりをゆっくりと見渡した。
 微かな薬の匂い。白い壁、白いシーツ。目の前に佇む少年は――テリィ。
 彼は青い顔をして心配そうにリルカの顔を覗き込んでいた。
「おい、大丈夫か? 凄くうなされてたけど……嫌な夢でも見たのか?」
「……う、うん……大丈夫。平気……」
(どうして、今更――あんな夢を? もうずっと長い事見てなかったのに)
 何年も前、目の前から消えていった姉が現れる夢。そこにいる自分は『あの時』よりもずっと幼く、そして姉は『あの時』のままだった。
 消えなかった罪悪感が、あんな夢を見せていたのだろう。今はもう、姉の言葉もきちんとわかっているのに――何故?
 脳裏にこびり付く嫌な感じを振り払うように頭を振り、頭を切り替えてリルカはテリィを見上げた。
「ねぇ……ここ、どこ? なんでテリィがいるの?」
「あのなぁ……。ここは医務室だよ。何回か来ただろ? 俺だってさっき起きたばかりだよ」
「う〜ん……えっと、何があったの?」
 その言葉にテリィは呆れたような顔をしてみせる。
「ほら、学長に眠らされたんだろ。スリープのスプレーで。あれって確か、開発途中だって聞いてたけど」
「……あぁ。そういえば……って、今何時!?」 
 テリィは慌てたようにベッドから飛びおりるリルカに目を白黒させるも、一瞬後には冷静さを取り戻してあっさりと告げる。
「午後6時。もう日も暮れてきてる」
「ええっ!? そんなに経ってたの?」
 どうしよう、と呟くリルカの腕を掴み、テリィは立ち上がる。
 近くのテーブルに置いてあった上着やポシェットを手渡して出て行こうとするテリィに、リルカは戸惑った声をあげる。
「ちょっと、何処行くの!?」
「決まってるだろ? 学長の所だよ。俺たちが寝てる間に起こった事を聞かないと。時間はもったいなかったけど、寝たおかげで体力も魔力も回復したしな」
「そういえば……」
 寝ぼけているのか、ややとぼけた事を言うリルカを引き連れて歩きなれた校舎内を進み、会議室の重厚な扉を開く。
 そこには眠りに落ちる寸前までと大して変わらない光景が広がっていた。ただし、そこにいる人々は最後に見たよりもずっとくたびれた様子をしている。
「二人とも……もう、いいのか?」
「はい。どうもご迷惑かけて済みませんでした。何か変わった事はありましたか?」
「ああ、あったよ。まぁ一日以上も経っているんだ。当然だがね」
 苦笑しながら告げたマーゼルに、リルカとテリィはそろって驚愕に染まった瞳を向ける。
 同じ日の夕方だ、と思っていたが――まさか次の日になっていたなんて。
(本当なら、今日にはシャトーに帰らなきゃいけなかったのに)
 きゅっと唇をかむリルカを見、素早く落ち着きを取り戻したテリィは顔を上げる。
「それで、何があったんですか?」
「……昨日の時点まで着実に減っていたモンスターが、昨日の夜になって急増したんだ」
「……そんな……」
「幸い、街の住人はほぼ全員避難した。あとは物資の補給と、移動用魔方陣の復旧を急いでいるところだ。怪我の少なかった有志の渡り鳥達は学校と魔方陣の周囲の護衛に当たってもらっている」
 とりあえずの現状を聞き、頷いたテリィは周りを気にしつつ小さな声でマーゼルに声をかける。
 ぽそぽそ、と囁きあう二人にリルカはきょとんとしている。
「ねぇ、何してるの?」
 それには答えずに、真剣な表情で頷きあった後テリィは素早くリルカの手を引いて再び歩き出す。
 繋いだ掌は湿り、彼が緊張しているのがわかる。
「ねぇ、一体どうしたの?」
「昨日……町外れまで足を伸ばした1年のグループが、天文台で変なものを見たらしい」
 なんでも、救助隊に編成した学生たちが天文台で大型のモンスター影を見たという。その場には実戦経験のあるものが居なかったため、近くに人が居ないのを確認してから帰って報告する事にしたらしい。
 他にも何件か同じ様な報告があり、またあるものはそこからモンスターが出てきた、というものもいたという。
「つまり、そこからモンスターが生まれてきてるって事?」
 テリィの話を聞いて考えながら行った事に、テリィは厳しい顔で頷いてみせる。
 二人の足取りは学校を出た辺りからどんどん早くなり、最後には駆け足になっている。
「そうだ。それに、もしかしたら今回の事件の鍵がそこにあるかもしれない。……本当は昨日リルカが帰ってきたときに行こうと思ってたんだけど……やっぱり、こんな事に」
 悔しげな表情を浮かべるテリィに、リルカは小さな笑みを見せる。
「もし昨日行ってても、モンスターがいたら勝てなかったかもしれないもの。それに、今勝てばいいわけでしょ?」
「……そう、だよな」
 そんなリルカの言葉に苦笑しつつも、テリィは次第に笑みを浮かべていった。
 そうこうしているうちに二人は天文台に辿り着き、そのままためらう事無く内部へと走っていく。
 階段を上がり、ホールに登るとそこに人が何人か倒れているのを目にした。
 白衣を着ている所を見ると、この天文台にいた研究員達だろう。ここには常に数人の研究員が待機する事になっているのだ。
「テリィ」
「ああ……」
 素早く駆け寄ってそっと手を倒れた研究員の首筋に手を当てたテリィは、ふっと首を横に振る。
 ほかの人にしても同じ事だった。ここはこの数日と言うもの、人の出入りが無かったはず。
 生きていたとしても、間に合わなかっただろう。二人は軽く手を合わせて悲しい死者達に黙祷した。
 テリィはすっと立ち上がると、厳しい眼差しを中央に添えられた階段へと向ける。
「間違いなく、この先に『何か』がいるんだ。恐らくモンスターが」
「それも、多分強い奴がね」
 不適な表情を見せるリルカをちらっと見つめ、テリィは緊張した眼差しを和らげる。そして二人は一度顔を見合わせると、ゆっくりと細い階段を上っていった。




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