――「約束」しよう。――……って。
 最初にそう言ったのは、『彼』だったように思う。
 十を目前とした年頃の、綺麗な黒髪を持った少年。
『彼』はゆっくりと言いながら、ちいさな掌を差し伸べた。
 強く鮮やかに瞬く瞳で、真っ直ぐに幼い少女を――私を見据えながら。
 ――ぜったいに、忘れないで。
 その言葉に、無我夢中で確かに頷きを返していた。
 いつか、たくさんの大人たちと同じように忘れてしまうとしても。
 いつか、たくさんの思い出と同様に色褪せて消えてしまうのだとしても。
 ――ぜったいに、忘れないよ。おぼえてるよ。
 生まれて始めての“ひみつ”が嬉しくて、はりきってそう応えた。
 なんて事ない、小さな小さな約束。
 けれど、幼い二人にとっては何よりも大切なもので。
 ――いつまでも、忘れないから。
 そう言った私の声を聞いていた『彼』の顔が、突然哀しそうに見えた。
 それがすごく辛くて、悲しくて。
 夢中で私よりも高い位置にある、まだ幼い顔を見上げて小指を差し伸べていた。
 それは、幼かった私が唯一思いつくことが出来た、約束の形。
 ただ……それだけのもの。
 でも、『彼』は目を見開き、ゆっくりと顔をくしゃりと歪めて。
 心から嬉しそうに、優しそうに微笑んでいた。
 ――うん。約束だから。
 そう言って、私達は小指を絡ませて誓った。
 強い風の吹く、寒い日だった。


 そして。
『彼』は、それからすぐに姿を消した。
 目覚めると消えてしまう、泡沫の夢のように――。




新たなる出会い それを目にするため 我らは往く 血塗られた果て無き道を――
第44話 交差する出会い(2)




 ふっと、彼は暗闇の中で目を開いた。
 暗く、濃い闇のわだかまる場所。普通なら、そこ知れぬ恐怖を感じるだろう。だが、それはつまり今では懐かしいとさえ思える、そして恐らくもう二度と訪れる事の出来ないだろう、あの果てのない空間にこの世界で最も近いだろう場所。
 そんな何処とも知れぬその空間に、彼はいた。
 物憂げに辺りを見回し、目を瞑るとその後は身動き一つしない。彼の周りでは刻が止まったように、冷たい静寂が満ち溢れていた。触れれば一瞬で砕け、消え去ってしまうかのような想いさえ、抱く。
 何を考えているのだろうか。何を感じているのだろうか。その想いを多少でも共有する事ができる者がいるならば、それはおそらく――。
「…………」
 彼は、小さく吐息を零した。
 走り去る少女。笑顔を浮かべる少年。繋いだ掌。付き返された想い。蒼く澄んだ空。緑豊かな平原。浴びせ掛けられた声。平穏の満ちる村。頬に感じた涙。
 それらの幻影が、忘れたい、忘れてしまったはずの物達が甦る。返してくれろと泣き叫ぶ声までが聞こえてきそうで、彼はふっと閉じた瞼を動かした。
 揺らめく炎。魅せられるのに、それを掴む事は出来ない。確かに目にする事はできるのに、それを感じる事はできるのに、決して手にする事はできない。
 求めてやまない、眩しく輝く笑顔が。堅く握り締めるだろう、差し伸べられる掌が。それらの全てが幻のように揺らいで、消える。
 胸中でざわめく思いから目を逸らし、ふと油断すればすぐにでも浮かんでこようとする幻を消し去り、彼はぎゅっと手のひらを握り締めた。
「……やはり、間違いない。『彼女』は"ここ"にいる……なのに、その姿を捉える事が出来ない。こんなにも近くにいるのに。こんなにも感じるのに――!」
 哀愁さえ感じるほどの声音で呟き、彼は握り締めた拳を額へと押し付ける。その手の中に、何か大切なものを掴んでいるかのように。それを欲しているかのように。
 湧き上がる感情。熱く燃ゆるその想いに気付いた瞬間、それをどこかへと封じ込め、彼はゆっくりと拳を開いて『どこか』を強く見据えた。
「――さぁ。彼らは間に合うかな……?」
 唇が笑みの形に歪む。恐ろしいほどに鋭く輝く深紅の――鮮血の色をした瞳が、愉しげな光を浮かべる。
 先ほどまでの人間らしい姿が、仕草の全てが、刹那の合間に見た夢であったかのように。僅かの間に、別人へとなり代わってしまったかのように。
 ゆらゆらと片手を揺らし、そっと『何か』を撫でるような動きをする。すると、突然彼の手が撫でたと思われる辺りがふっと揺らぎ、『何か』が映し出された。
 淡い色の砂、そして鮮やかな赤や青の屋根。それらが混ざり合う街の中に、いくつもの煙が靡いている。時折姿を現す異形は、彼の呼んだモンスター達。逃げ惑うのは、街の住人達。それを救わんとするのは、いずれ劣らぬ歴戦の英雄達。
 ふっと映し出されたモノが揺らぎ、次に移ったのは先ほどの街の一場面。そこには暗い色をした長髪の女と着ぐるみが二手に分かれ、それぞれ橋の両側にいる仲間たちへと駆け寄っていく様子がそれぞれの『窓』へと映し出されている。
 刹那ほどの時間もかけぬ間に、彼の目の前に二つの『窓』が出現していた。
 そこに映る者達は一様に必死な様子で言葉を紡ぎ、ほとんど同時に先ほど『彼』自身が指し示した方向に顔を向ける。アシュレーとリルカ、ブラッドとテイムが、知らせをもたらした者に戸惑いを隠せない表情を向けている。
 彼らが一体どうした事を話しているのか、ここからでは聞く事はできないが――。
「どうやってここまで辿り着くかな? 早くせねば、手遅れになるが……」
 顎を上げ、上に向けた掌から零れるのは小さな炎。さらさらと砂が零れるかのように、手にした水が流れ出すかのように、赤い色を纏ったそれは落ち続ける。
 足元へと達する前に色を失い、消える。そして再び、彼の手からは途切れる事のない炎が零れ続ける。飽きる事なく、永遠に続くような動作で。
「親愛なる、そして我を“滅ぼせし者たち”よ。汝らはいったいどう動く……?」
 くくっと喉を愉悦に鳴らし、細めた瞳でそれぞれに映った6人を眺める彼はしかし、その鋭く冷たい顔にどこか不思議な表情を浮かべていた。
 確かに見えるのは、歓喜。愉悦とも言える、歪んだ喜びの感情。
 隠されているのは、哀惜。郷愁かのような、相反している想い。
 現れては消え、掴めない幻のように。悲しみと喜びとが彼の表情を交差し、そしてゆっくりと糸を引いて途切れゆく。それは、そのまま彼の複雑な想いを表しているかのよう。
 揺らぎながら二つの情景を映す窓には、橋の袂で合流した彼らが煙を靡かせている建物の一つから一台のジープを探し出しているのが映っている。この程度の規模の街にあるのが奇蹟かと想えるような、それなりの性能を持ったそれに飛びのる。飛びのった瞬間にギアを入れ、即座に最大スピードで走り出した彼らの様子を見るところ、彼の用意したモンスターは大方片付けてきたようだ。
「ほぉう……? 確かに、それなら随分と早く動けるだろうがな。では、我も動かねばなるまいな……余り長くここにいるのは、流石に少々疲弊するからな」
 まるでどうでもいいかのような口調で呟きながら手を動かして片方の『窓』を消し、意識を飛ばす。すると、もう一つの窓が瞬時に拡大し、そこに小さな村が映った。
 小さなオアシスを囲むようにしてある、小さな村。砂漠の何処とも知れぬ場所にあるそれを眺め、彼はふん、と不満げな声を洩らした。
「下らぬ。こんな形で生にしがみ付き、一体何の意味があるというのだ?」
 『彼』には理解できない事なのだろう。豊かとはいえないながらも、穏やかな雰囲気流れる村に蔑みの眼差しを向け、さっと長い足を組み直す。
 そして目を閉ざし、吐息をひとつ零して――。
 再び開いた目に浮かぶ光は、穏やかな色を湛えていた。感情が窺えないながらもその眼差しには暗い光は一切なく、見止められるのは海のような深い、深い色。
「……だけど、その想いは俺も知っている。求めるものがあり続ける限り、ヒトは決して生きる事を諦める事は出来ないのだから」
 囁くような小さな声で、伸ばした掌の先にあるのは消えかけの幻影。
 遥か昔、彼が持っていたもの。彼だけに向けられていたその微笑み。今はもう、決して取り戻す事のできない、悲しみだけを秘めた――。
「いつか……もう一度、出会えたら。叶わないとわかっていても、諦める事はできない……だからこそ、俺はここにいる。こうまでして、生き長らえて――。抗うしか出来ないから。無駄な足掻きだとは知っていても、そしてその道を違えているのだとしても、きっと……」
 差し伸べた掌がその頬に触れる刹那、柔らかな幻は輝く欠片となって砕け散る。
 それを見やる青年が浮かべる瞳の色を、誰も知らない。
 その声は、その言葉は誰にも届かない。届く事はない。
 暗闇だけが彼を抱き、彼の眼差しは――。


*****


「えぇ?! ダメなんですか?」
「ああ」
 残念そうな声を上げるリリスに、年老いた男は申し訳なさそうな表情でゆっくりと頷きを返した。
 視線を肩越しに後ろへとやり、
「突然の落盤でね。地震の影響が一気に来たらしくて、ここを通れるようにするだけで一苦労さ。完全に修復するまで、随分時間がかかるよ。……怪我人が少なかったのが、唯一の救いさね」
「そう……ですか。どうもありがとう……」
「いいや、悪いね」
 巨大な瓦礫で埋まっているトンネルを指し、溜息を洩らしながら言うその言葉に偽りがないのを感じ取り、リリスはしぶしぶながらも肩を落とした。
 砂漠側からギルドグラードへと通じる唯一の手段、ウラルトゥステーション。そのトンネルが落盤事故によって封鎖され、通行が不可能となっているという話を聞いたのは、今朝早くの事だった。
 リリスは夜通し歩いてやっと駅に付属するような形で出来ていた小さな村に辿り着き、そこに一軒だけあった宿に直行して丸1日以上、泥のように眠り込んだ。大丈夫だとは思ったが、『あの』出来事はやはり多少なりとも少女の心身に影響を及ぼしていたらしく、目覚めてからも酷く身体中に疲れが残っていた。
 それを堪え、朝食をとるために食堂へと足を運びそこでやっと、リリスは数日前から列車が止まっている事を知ったのだった。
 朝食を食べる暇も有らばこそ、大急ぎで駅まで出向くと、そこには自分と同じ様な渡り鳥たちが数多く並んでいるのを目にし、更なるめまいに襲われたものだった。結局、彼女が担当者に話を聞く事が出来たのは、日が暮れる寸前だった。
 この村に到着した日はほとんど夜中近くだったし、次の日も眠っていたためにこの騒ぎを知る事がなかったリリスはそんな自分に呆れながらも、困惑していた。
 こんな事になるとはまったく予想していなかったため、次にどうしたらいいのかが思いつかない。長い間この星を見続け、知識は人並み以上に蓄えたと思っていたのだが――知識は知識でしかなく、それを応用する事ができれば何の意味もないのだと、改めて思い知らされた感じだった。それらの知識は殆ど全てが亜空間で得たものだった為、彼女には経験が足りないのだ。
「どうしよう……これから」
 大きな街であれば、多額の金と引き換えにして別の場所へと連れて行ってくれる商いをする渡り鳥も見かけるのだが。テレポートジェムを使うその商売は、金額が高いのと相手が行った事のある場所しか行けない事が欠点のものだが、時間がかからないために重宝している商人や同業者も多い。
 だが、ここの村は小さすぎるし、この騒ぎの所為でテレポートジェムさえも売っていない。それを持っている渡り鳥たちは、さっさと見切りをつけて移動してしまっている。
 後はもう、トンネルの修復を待つか、もう一度砂漠を引き返すぐらいしか方法はなくなる。
 前者でも問題はないのだが、何分時間がかかってしまう。あまり時間を浪費したくないリリスとしては、必然的に後者を選ばずにはいられないのだった。
「仕方ない……食料を補給して、明日また、クアトリーへ戻ろう。そして……」
 肩を落とし、荷物を預けてきた宿へとゆっくりと足を進めながらリリスは小さく呟いた。その声音には、抑え切れない動揺と悲しみとが混在しているようだった。
 まさか、これほど早くにあそこへと赴くことになるとは思っていなかった。全てが終わる前に来るつもりではあったが、少なくともそれは今ではなかった。もう少し、色んな事を知って、そしてどうにかする術を見つけたら、その時こそあの小さな村を訪れよう、と。
 この想いを、そして言葉を告げるには、まだ少し時間が足りないと思っていたから。
 だが、この機会を逃せば次がない可能性のほうが大きい。少なくとも、『彼』と戦えば無事では済まないだろう。伝えるはずの言葉が伝えられなくなる可能性は、決して少なくはないのだから。だからこれは、避けては通れないことでもあったのだろう。
(残されたものたちに別れを告げるのも、ある意味俺達の仕事のひとつなんだろうな)
 今はもういない、闊達な男の声が聞こえたような気がした。その、力強い笑みも。
 優しくしてくれた。命を助けてくれた。そんな人に、悲しい知らせをもたらすのは辛い。けれど、それが避けて通れない道ならば――。
「……これも『炎』のお導き、なのかな……」
 悲しみに瞳を染め、そっと胸元に手をあてる。そこには、ペンダントになっている小さなコンパスがある。銀の細工されたそれが、彼との約束の証。
 拳を握り締め、遠く日の沈む荒野と砂漠の稜線へと視線を巡らせる。そこには、真っ赤な夕日が沈んでいっていた。
 トクトク、と高鳴る心臓に訝しげに眉を寄せ、理由のわからない不可思議な思いにリリスはゆっくりと首を横にふった。風が前髪をそっとさらってゆく。
「どうしてだろう……どうして、こんなに胸騒ぎがするの? 何か――何が、起きると言うの?」
 切なげな口調で呟くリリス。その眼差しは遠くへと向けられている。遥か彼方までも見透かすかのように細めた目が、小さく揺れる。そして、彼女はゆっくりと踵を返した。
 少女の問いに答えるものは、いない。
 すくなくとも、今は、まだ……。




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