いつも、ひとりじゃなかった。 孤独を思い知らされる時間がなかったわけじゃない。 でも、それはほんのわずかな時にしか過ぎず。 気がつけば、いつも誰かと共にいた。 最初は、誰よりも己に近しい半身と。 年は離れているけれど、きっと誰よりも判りあえる友と。 だから、いつもひとりじゃなかった。 孤独の冷たさよりも、そうでない時の暖かさを知っている。 それが何よりも優しいものであることも。 それが何よりも尊いものであることさえ。 そして、知った。 それが失われることこそが、なによりも辛いのだと。 何よりも大切な、かけがえのないもの。 それを、それをも、失ってしまった。 心から信頼していた、親友と。 長い間見つめ続けた、彼女も。 それは彼の過失であり、そしてまた、罪でもある。 失った物を取り戻すことなど、できないのだろうか。 もう一度、この手に。 それがどれほど愚かしく、また浅ましい願いなのだとしても。 どちらかしか選べないなら、そのどちらを選ぶかはすでに決まっている。 けれど、それを選べないのは。 選んだ時、きっと彼女がそれを許しはしないだろうから。 できることなら、失ったすべてをこの手に取り戻したい。 何よりも大切な、かけがえのないものを―― ![]() 第48話 交差する出会い(6) 気がつけば身体中が重く、そして世界がおかしくなっていた。 (……何……?) 思考は鈍く、身体どころか指一本も動かすことは出来ない。ひどい耳鳴りと頭が割れるような頭痛が外からの一切の音を遮断し、視界は常に霞がかって揺らめいている。うめき声を出すことさえ億劫に感じられ、またわずかに開いた口も小さく震えるだけ。 (……どう、したんだっけ……) たしか、みんなで戦っていて――そして? ほんのわずかな、一瞬の空白。自分で練り上げた膨大な量の魔力の感触を思い出し。 ――ああ、そうか。 不意に、ぱっと答えがひらめいた。 ダメージを与えるどころか、逆にイルダーナフに攻撃されたんだ。 突然体が熱くなって、よくわからなかったけど。たぶん、きっとそう。 視線の向くほうへと意識を向ければ、誰かが何かを叫び、それとは別の誰かがこっちに向かってくる。でも、ゆらめく視界がそれを人影という以上の認識を不可能なものにしている。 (やだなぁ……足手纏いには、なりたくなかったのに……) 視界の中央のあたりに、暗い赤が現れる。それは次第に膨らんでいき、今にも弾けそうだ。 よく見えないけれど、わかる。あれは自分に害を成すもの。――殺そうとする意志を持つ力。 なんとかしてよけなきゃ、とは思うものの、身体は一ミリたりとも動いてはくれない。このままではあの塊に直撃してしまうのではないだろうか。そうしたら、きっと死ぬんだろう。 そんな予感が、する。ぼんやりと、けれど、確かに。 いつの間にかゆっくりと視界は狭まり、暗くなっていく。 (……やだ、なぁ……) 暗い紅がいっそう大きくなっていく。それが自分を包み込むのはそう遠く無いだろう。 最後に見るのがそんなものではいやだ。そう思い、なんとかして視線を動かす。 こみ上げる吐き気と、今すぐにでも飛んでいきそうな意識を懸命に繋ぎとめ、わずかに視線を動かす事に成功する。すると、不思議なものが目に入ってきた。 白く霞んだ色に覆われ、揺らめく視界でそれに気付けたのはいったいどんな意味があるのか、この時はわからなかったけれど。 暗い紅と、仲間達の背後に見える、それ。 少しずつ大きくなるそれは、かけよってくる……そう、人影のように思えた。 そうとわかった瞬間、見えないはずの目にけれどその一瞬、はっきりとそれは映っていた。 懐かしい、遠い昔にいなくなってしまった、暖かな人のおもかげが。 なくしてしまった、優しい思い出。 (……お姉……ちゃん……?) そして、リルカの意識は闇に沈んでいった。 ***** 炎を打ち消した残滓のような、わずかな暖かさを抱いた風がやわらかく通り抜けていく。 その風に闇夜を写し取ったかのような色の髪を揺らし、けれど表情一つ動かさず、彼女はそこに佇んでいた。 どこにでもありふれた、一般的な渡り鳥の装いをした少女だ。マントは風にはためき、頑丈そうなブーツが顔を覗かせる。それだけを見れば、街角ですれ違っても特に目を引くことはないだろう。 けれど、その見事なまでに艶めく漆黒の色が、そして遠くからでもよくわかる靭い<つよい>眼差しが、否応無しに視線を、そして心をも惹きつける。 悲しみと怒り、そして喜びとを同居させた表情も、また。 突然の出来事に驚くしかないただアシュレー達をよそに、彼女はゆっくりと視線を動かす。満身創痍な彼らを見て、倒れ付したリルカを見て。そして最後にひた、とイルダーナフへと視線をぶつける。 何も言わず、ただ、まっすぐな視線にすべてを託すかのように。 「……リリス……」 そんな彼女を見据えるイルダーナフの口から誰も捉えられないほど小さく、静かな響きを含む言葉が零れ落ちた。そこに潜む感情の色は、けれど風に溶けて誰も気付かない。 血のにおいの漂う中、不思議な沈黙が辺りを支配する。 戸惑うアシュレーたちの見つめる中、少女――リリスはゆっくりと歩を進めた。 「…………」 ゆっくりと歩み出すリリスの動きを追っていたティムは、リリスがほんの一瞬よこした視線にはっと身体を揺らす。自分は、なんのためにここにいるのか。 (そうだ……リルカさん!) 何があったのか、そして彼女が何者なのか。知りたいことはたくさんあるけれど、それはアシュレーたちがやってくれる。今、自分がしなければいけないのは。 ティムはすぐに鞄から回復用のベリーを取り出し、手際よく手当てを進めた。持っていたハンカチではたりなくて、来ていたシャツの裾もやぶって包帯代わりに巻き付ける。全部の個所を覆うことはとても出来ないから、せめて血が流れている部分だけでも、と。 歩みよって来る少女やイルダーナフが気になりつつも、ティムはぐったりと気を失ったリルカを横たえ、自分だけでなくリルカの持っていた回復アイテムも全て使いきり、そしてわずかに残っていた魔力でリルカに癒しの術をほどこしていく。 死ぬことは無いだろう、けれど間違っても軽いとはいえない怪我に、必死に手当てを続けるティム。 この胸に抱くすべての疑問、謎を解き明かすのは今でなくてもいい。自分じゃなくてもかまわない。いま、自分がするべきなのは、彼女を救うことだから。 他のすべてを自分達に託してリルカを救うことを第一に動いてくれているティムに感謝の視線を向け、アシュレーはすぐに視線を前へと戻した。 そこには、ゆっくりと歩みよるリリスと、完全に無防備な背中を晒しているイルダーナフがいる。 少しずつ近づくうちに、アシュレーは少女の全身が砂にまみれ、そして身体中のいたるところに裂傷が出来、血が流れているのに気付いた。服もマントもいたるところが裂けてしまっている。 痛くないはずはないだろうに、けれど彼女は全くと言うほど傷に注意を払わない。頬や額、こめかみと何箇所もある顔の傷口から流れた血もそのままに、ただ、イルダーナフへと視線を向けて。 そこで始めて、アシュレーはリリスの瞳に自分達と同じ驚愕が浮かんでいるのを知った。 ――いったい何がどうなっているのだろう。 さっき自分達を襲った炎から守ってくれたのはいったい何だったのか、あの少女は何者なのか、そしてイルダーナフは何故ここまで驚いているのか。 今すぐにでも問いただしたい。けれど、この場に流れる空気がそれを許してくれない。 今、この時を邪魔してはいけないのだと、何かが囁きかけてくる。 そっと視線を動かせば、ブラッドやカノン、そしてマリアベルもまた濃い戸惑いを浮かべて目の前の二人を見つめていた。 (いったい……どういうことなんだ?) アシュレーたちが注目する中、リリスはそれには一向に構うこと無くまっすぐに歩み、そしてイルダーナフからいくらか離れた場所で足を止めた。 ちょうど、アシュレーたちからも彼女の表情や様子が良く見えるほどの距離。そして、おそらくそれが――ギリギリの、境界線。 イルダーナフの背中からは、いつの間にか先ほどまで感じていた驚きが去ったように思える。警戒している訳ではないが、さっきのように無防備になったわけでもない。 いかなる色にか、揺らめく瞳でリリスは前を――イルダーナフを見据え、くちびるを震わせる。 そして、ひゅっと息を吸い込んでわずかに喘いだあと、リリスはやっと口を開いた。 『ねぇ、……どうしてなの?』 初めて聞いた、少女の声。 けれど、その意味は全く理解できない。今まで一度として聞いたことの無い言葉に、アシュレーのみならずその声を耳にした全員が、訝しげな表情を浮かべた。 彼女ならわかるのだろうか――と、マリアベルに視線を向けるが、しかしマリアベルもまた苛立たしげな表情を浮かべている。 その様子から、おそらく彼女もわからないのだろう、と当たりをつける。 ……だが、そんなことがあるのだろうか? 今現在にこの世界、ファルガイアでは一つの言語しか存在していないし、あったとしてもそれはすでに過去のものであり、また長い年月を生きたマリアベルが知らず、なのにそれを口にする人物がいる事などありえるのだろうか。 (いったい、何がどうなってるんだ?) アシュレー達の中で膨らんでいく疑問。けれど、それにまったく気付くこと無く――あるいは気付かずに――リリスはわずかに表情をゆがめ、イルダーナフにまた一歩、近づいた。 『まさか……イルド、なの?』 震えるくちびるで紡がれた言葉。 耳を澄ましたマリアベルにはイルド、という単語が聞き取れた。何かの名前のような、そんな響きを持っていたように思える。 アシュレー達が説明を求めるような眼差しを向けるが、彼女だってこんな言葉は知らない。ただ、豊富な知識がそれを『知らない音』ではなく、きちんとした『言葉』として認識できるだけ。 だからこそマリアベルは意味もわからないまま、全神経を耳に集中させていた。 『なんで……だって、あの時消えたはずでしょう? なのに……』 『――それが、重要な事なのか?』 ふいに、リリスの言葉にイルダーナフが同じ言語でもって答えた。 二人の話す言葉が同じ事にアシュレー達は驚き、リリスはその口調に目を見開いた。 『別に姿が“ヤツ”と同じだからと言って、中身まで同じだとは限らんだろう』 『……力を取り戻して、姿を写し取った、と?』 リリスの縋るようだった口調が一変し、斬り付けるような鋭い物へと変化した。けれど、リリスは口調とは裏腹に顔を俯けた。 ぎゅっと、かたく左手首を右手で握り締める。 『それは、誰よりもお前が一番よくわかるだろう? 忌々しいことだがな』 『そうね。まだ、完全じゃない。……だから、街を襲った。違う?』 『残念ながら、途中でヤツらに邪魔されてしまったが、な。……それにしても、その左手はどうしたのだ? 作りモノではないようだが』 先ほどまでの驚きが嘘のように、落ち付いた声で答えるイルダーナフ。 その言葉に、リリスはうっすらとくちびるを歪めた。 そっと顔を上げ、前に立っている男の顔をまっすぐにみやる。その表情からは、どんな感情の色も見えない。ただ、歪められたくちびるが、その表情を彩っているだけ。 『さぁ。なんでしょうね』 にぎった手を離し、左手を軽く振ってみせる。 その動作がいったい何を表すのか、その意味を理解できるのはお互いだけだということを、二人はよく知っていた。それを知っているのは、二人だけなのだから。 失ったはずの左腕。手に入れたはずの剣。それら二つをつなぐもの。 『それよりも、邪魔された、なんて……あの時に片をつけなかったことを、後悔したとでも?』 『いや。それでは面白味がなくなるだろう? もとより、それくらいは計算のうちだ。目的はすでに達したのだからな』 くっと喉を震わせ、イルダーナフは楽しげな視線をリリスへと向けた。 その言葉にリリスはぴくん、と眉を動かした。そのままの表情でイルダーナフへと視線をなげかけ、そしてちらり、と横手に視線を向け、すぐに戻す。 わずか一瞬、向けられた視線の先に張るのはエレンシアという名の小さな村。――小さな村があった、その場所。 瞬きよりも短い間に、数え切れぬほどの想いが胸を掻き乱す。だが、それをリリスは目を伏せることで完全に押し殺した。誰一人として、それに気づくことなく。 『微かな残滓は感じ取れたが、さすがに居場所まではわからなかったのでな。一番残滓の大きかった場所を狙ってみたが――まさか、成功するとは思っても見なかった』 『やっぱり――私をおびき出すためだけに?』 あの、小さいけれどとても暖かな優しさを持っていた村を滅ぼしたのかと。 嬉しげなイルダーナフに向けられた言葉は、むしろ淡々としたもの。 けれど、その瞳にはまぎれもない怒気が宿り、両の拳はかたく握り締められている。 射すくめられただけで焼き尽されそうなまでの怒りを向けられ、けれどイルダーナフはむしろ楽しそうに瞳を細めた。 わずかに歪められた唇が、彼の感情を表して。 『そうだ、と言ったら?』 『決まってるでしょ?』 短く告げられた言葉。 どんな意味も見出せないその音に、けれど誰もが、何かが始まるのを理解した。 ざ、と一歩だけ、リリスが踏み出した。 『――今、ここであなたを滅ぼす』 「うわっ!?」 ぶわ、とリリスの周囲を見えないモノが覆う。 わきあがった「何か」が揺らめき、マントを、服の裾を、そして髪をはためかせる。 思わず驚きの声を上げたアシュレー達に構わず、リリスは静かな動作で右手を持ち上げる。まるで、何かを――剣を捧げ持つかのような位置へ。 見えない「何か」が少しずつ形を成し、それが紛れも無い「炎」の形をとり始めるのにイルダーナフは笑みを浮かべた。 悦びとも、悲しみともつかない感情が、通り過ぎていく。 『できるのか? お前に』 『できる、できないじゃない。「やる」だけ』 静かな口調で言い、リリスはそっと「内」に語りかけた。言葉ではなく、ただ、そうあるべき想いを。 ――力を貸して、と。 答えはない。けれど、そう語りかけた途端に左手がわずかに柔らかな熱を放った。 それと同時に右手のあたりに少しずつ光の粒子が集まり、ゆっくりとそれが形を成して行く。 「あ……」 「む?」 「いったい、何だ?」 二人の話していた間、そっと下がって倒れたリルカの周りに集まっていたアシュレー達は、それを目にして幾度目かわからない驚きに、また声を上げた。 アシュレーは不思議なデジャ・ヴュを。 ティムは慣れ親しんだ暖かさを、それぞれに感じて。 彼らの見つめる中、リリスの手に次第に光が集まり、それは確実に重みを持ったものへと変化していく。光は濃くなり、確かな存在へと、変わる。 ふわ、といっそう光が濃くなった次の瞬間。 それは零れるように消え、後にはひと振りの剣が残されていた。 優美な光の流れる直線。鋭く輝く刀身は、けれど不思議な優しさをも感じさせる。その刃を彩る装飾は一切なく、けれどそのことこそが何よりもその剣を美しく飾っている。銀とも白ともつかない色が、唯一それを物語る言葉。 少女の手に握られたそれは、両手で持つには若干小さいといった程度の大きさと長さを持っている。美しい、そして強いモノを秘めた剣。 もちろん、今まで見たことはない。けれど、どこかで見たような気がするのも確かだった。 「あれは……」 不思議な懐かしさを感じ、アシュレーが眉をひそめた。それを知って知らずか、その後ろに膝をついていたティムが、はっと“それ”に気付いた。 ここ最近、遠くなってしまった懐かしい気配。今感じ取ったものはティムが知っているものとは若干違うけれど、それを彼が間違えることは無い。 なぜなら、彼は命を犠牲にして世界を救える“柱”たる資格を持つものだから。 その運命を知り、けれどそれを退けられるほどの力を持っている存在だから。 ティムははっきりとした確信と、そして戸惑いとを込めて叫んだ。 「あれは……ガーディアン!?」 その強い声に、アシュレーは驚いてティムを振り返った。そしてその瞳が間違いの無い事を告げているのを見て取ると、再び前に向き直った。 あの剣を見た瞬間から感じていた懐かしさ。それが、形になった気がした。 「じゃあ……あれは……アガートラーム、なのか?」 「バカな……そんなはずはない」 首を振り、けれど視線を外すこと無くカノンが言い切る。 「あれは、3年前からずっと“あの場所”にあるはずだろう!」 脳裏に浮かんだのは、小さな森の奥にひっそりと立てられた、小さな墓。そこにある、墓標となるもの。つい先日、目にしてきたばかりだ。 「ティム。間違いはないのか?」 剣を手にとったまま動こうとしないリリスと、構えること無く佇むイルダーナフへと向けていた視線を動かし、ブラッドが静かに問いかける。 それにティムは頷きをもって答える。 間違いはないのかと、そう問い掛ける視線にはっきりとした確信を持って。 それだけでは説明が足りないと思ったのか、少し躊躇ったあと、小さな声でつけたした。 「……あれがアガートラームかどうかは、わかりません。でも、あの剣からガーディアンの気配が感じられるのは間違いありません」 これほどまでに強い力をもつガーディアンが今の世界に存在するか、それはわからなかったけれど。そして、それを口にはしないけれど。 ティムの答えに頷きを返し、ブラッドは再び前を向く。 「ティムが言うなら、間違いは無いのだろう。だが、それだけですぐに結論を出すのは早い」 「少なくとも、妾たちはまだ謎のカケラさえも手にしてないのじゃからな」 淡々とした口調のブラッドの言葉をつけたすように、マリアベルが口を開く。その声がどこか悔しそうな響きを持っていたような気がして、アシュレーはわずか、眉を動かした。 「イルダーナフと、あの娘がどういう関係なのか、そして何を話しているのかもわからん。ただ、妾たちの知らぬ何かを知っているのは、確かなようじゃ」 「……いったい……何者なんだ? 彼女は……そして、イルダーナフは……」 |