『彼女』は、嘆いていた。
 『彼』は、憤っていた。
 彼らを取り巻くことになる、果てしない争いに。
 彼女らを巻き込むことになる、途切れることの無い悲しみに。
 出来ることなら、代わってあげたい。
 出来るなら、伝えてあげたい。
 さだめられた大きな運命から。
 これから起こる出来事を。
 しかし、それは叶わなぬこと。
 彼らに出来たのは、『彼』に願いを託すこと。
『彼』が、今の彼らには出来ないことを成してくれるように――。
 そう信じることだけだった。




時のきっかけ それは僅かなりしの焔のみ――
第8話 謎の少女




 その部屋からは、微かに消毒薬の臭いがしている。清潔なお日様の香りと、風の運ぶ植物などの香り屋数々の音が、耳に心地よい。
 シミのあまり無い、真っ白い壁。新しくは無いけれど、でも、古くも無いような。
 南向きのこの部屋唯一の窓にかかった淡い色の布地に手作りらしい美しくもシンプルな刺繍の施してあるカーテンが、爽やかな風に揺られてはためいている。
 そこには,包帯で身体中をぐるぐる巻きにされた少女が横たわっていた。
 外から子供の遊ぶ声や人の楽しげな笑い声が、微かに聞こえてくる。
 ふっと何かに呼ばれた気がして、彼女は眼を瞬かせた。まどろみの中から、急に覚醒を促される。
(……何……?)
 何かの違和感。それを彼女は敏感に感じ取っていた。
 今までの彼女を取り巻いていた環境とは違いすぎるがゆえに、それが何か、一時彼女は理解する事ができなかった。
 ぼんやりとしたまま無意識に大きく空気を吸ってから、やっとそれに気がついた。
(……風の香り……)
 少しかび臭い生活観のあるにおいや、ツーンとした物はこの部屋の匂いなのだろう。
 少し甘いのものや、冷たい感じのするものは外から風が運んできた水の匂い。
 長い、果てしなく長い間、少女がずっと切望し、憧れていた外の香り――。
(ああ……)
 途方も無い喜びと罪悪感が少女の胸を焦がす。どうしようもないほどに。
 目を瞑ると、生暖かい涙がこめかみを伝うのが解る。
 生きている証拠。彼女が、再び"時"の動く世界へと足を踏み入れたことの、証。
 そして、それと同時に少女の頭の中を過ぎ去っていく膨大な量の記憶。
 『アイツ』との、果てしなく長く辛い戦い。
 大好きだった人達のいた、大切な世界。彼女自身の故郷。もうなくなってしまった場所。
 自分の過ちや過失で、死ななくてもいいのに死んでしまった人達。
 どんなに力の差を見せ付けられても、決して屈しなかった強い心をもつ人達。
 強大な力に押しつぶされ、悲しみの道へと足を踏み入れてしまった人々。
 そして、こんな自分に力を貸してくれた――。
(忘れないで)
 唐突に脳裏に甦り、凛とした響きを持って流れ往く、ま新しい記憶。
(信じていて……未来を)
 暖かな思いと、胸を引き裂く強い痛みに少女のこめかみをつたう涙が止まることはない。
 そっと、少女は"失ったはずの左手"で顔を覆う。
 それだけが、彼の残してくれた温もりのようで――。
「……ありがとう……ロディ………」
 いくら感謝してもし足りない。それだけの事を、してもらったのだから。
 自分はあんなにも沢山の過ちを犯しているのに。償いきれないほどの、それこそ生きている事さえ新たな罪であるかのような罪を犯してしまったのに。
 それでも彼は愚かな、そしてちっぽけな少女を信じ、今も彼女を助けてくれる……。
 彼女を、信じていてくれる。
「頑張らなくちゃ……」
 彼は、彼女を信じてくれた。代償を求めることもなく。
 彼らは、決して何があろうとも諦めずにこの美しい星を守ろうとしている。それがわかる気がする。
 まだ、自分自身の目でしっかりとそれを目にしたわけではないけれど。
 この世に存在するすべての咎は、彼女を戒める鎖となるだろう。それを知っている。
 しかし、彼女はそれを苦痛とは思わなかった。
 何故なら、彼女はあの世界から出られたのだから。それこそ、彼女が長い絶望の刻が流れる間、ずっとひたむきに願い続けてきた事なのだから。
 再び青く輝く空を見て、柔らかな風を感じ、瑞々しい草や木々の揺れる声を聞き、乾燥した土の匂いを、再び嗅ぐことが出来たのだから。
 永遠の闇はもやは存在せず、それを包むであろう夜の闇さえ傷ついた少女を捕縛できずに星々の煌きをもってして、癒そうとしてくれる。
 熱く燃ゆる太陽の輝く光は彼女を強く照らし、自由な風の囁きは少女の持つ深い悲しみを全て洗い流そうとしてくれているのだから。
 『アイツ』は、そんな素晴らしいこの世界を奪い、汚し、滅ぼそうとしている。
 そんなことをさせてはいけない。決して。自分の命がある限り、許してはいけないのだ。
 自分が自分である限り、自分が自分であるために、己が命をもって戦いつづけよう。
 この、荒れ果てながらも数々の美しい物が多く残る星を守るために。
 彼らとの大切な約束を果たすために。
 人々の心に根付き始めた、美しくも強く脆い感情を救うために。
 いつか、どこかで生きているかもしれない彼らに、再び絶望を与えないように。
 強い決意を胸に秘めながら、少女はそっと目を閉じた。
 大いなる安らぎの源である闇が、再び彼女を深い深い眠りの世界へと誘っていった。
 ふっと、体の力を抜きながら少女はそれを耳にしていた。
 慌ただしくこちらへかけて来る、2人分の足音を。


*****


 漆黒の闇に包まれた場所に、ソレは佇んでいた。
 暗く澱んだおどろおどろしい無数の負の感情に包まれながら、ソレは愉しいそうに、嬉しそうに――狂った笑みを閃かせる。
 その足元にわだかまるのは、ソレと彼自身が流しただろう、おびただしい量の黒く染まった血。数え切れないほどの人々が流しただろう、嘆きと悲しみのもの。
 ソレは狂気を見せびらかし、『お前は我と同じなのだ』と囁く。
 彼を己に取り込もうとして。彼の持つ、暗い感情に引きずり込もうとして。

――さあ、堕ちていくがいい……己の持つ深い闇の中へ。確かにお前は"光"を持つ。だが、光は全てを照らすと同時に漆黒の影を作り出す……。

 にやりと笑みを浮かべ、ソレは手を差し伸べた――その掌は、紅い鮮血で染まっている。
 その目はらんらんと輝き、禍々しい光に満ちている。

――我と共に来い。さすればお前は永遠となり、最強の存在となる。そして、我と共に全てを滅ぼすだろう。
――嫌だ! 僕はそんな事は絶対にしない!

 全身で拒絶の叫びを上げる彼に対し、それは愉しげに笑って見せる。
 全く愚かな事を言う、とでも言いたげに、余裕の態度を示しながら。

――本当にそうかな?

 ぼろ、とソレの顔が崩れ、新たな姿が浮かび上がる。
 同時に明かりがソレを照らすとそこには……。

――お前は心の底では滅びを望んでいるのだ……決して、逃れられはしない。

 ソレは――アシュレーと全く同じ姿をしたものは、鮮血に濡れた手を彼に差し出している。そのもう片方の手は、彼の得手とする銃剣を手にしていた。
 それは地面に向かって延び、大地との間に何か大きな物を縫いとめていた。

――あ、ああ……!!
――我と一つとなれ、アシュレー・ウィンチェスター。お前はいつか必ず、お前の愛するもの全てを滅ぼすだろう……内に秘めた欲望のままに。お前がお前である限り、お前は決して滅びと破滅の道から逃れる事は出来ない!

 彼の姿を全く同じに写し取ったソレは、暗い色をした冷たい大地に彼の最も愛する女性 ――マリナを銃剣で深々と刺し貫いていた。
 光を失った虚ろな瞳が彼の姿を映し、その表情は絶望と悲しみとで染まっている。

――さあ、内なる闇を受け入れるがいい……お前自身の手で、この世界を滅ぼすのだ!

 それは高々と笑い、一層濃い闇に包まれていく。
 そして彼もまた――。


*****


「……――ッ!」
 彼は突然の悪夢に目を見開き、飛び起きていた。心臓が痛いほどの速度で鼓動を打ちつづけ、頭がガンガンと痛む。耳のすぐ側で凄まじい勢いで血が流れ動いているのだ。
 思わず叫びを上げそうになる己を強く叱咤して、固く唇を閉ざす。ぎり、と奥歯を固く噛締め、内に篭る怒りの迸りを抑えようとする。
 身体がじっとりと汗をかき、内部に強い熱を帯びているのを感じる。
 それは決して病の類ではなく、むしろ彼の持つ"力"を解放しようと、彼の内側からゆっくりと焦がし、蹂躙していく。彼を、汚そうとしている。
 自分の手首を握り、彼――アシュレーは掌にキツく爪を食い込ませる。
 まだ日が昇らない時間、薄暗い部屋の中でアシュレーはベッドから足を下ろし、おぼろげな月明かりの射す窓辺へとゆっくりと歩み寄る。
 空は闇と光に彩られ、美しい蒼のコントラストを描いていた。
 だが、彼はその空を美しいと想うと共に切ない思いが胸中を過るのを感じていた。その為に失った犠牲を知っているからこそ。
「また……」
 キツく、両の指先が白くなるほどまでに握りこんだ右手を窓枠に強く押し当てる。
 そうでもしないと、身体の内側を焦がしていく焔の甘い誘惑に負けそうになる自分が悔しい。
 それほどまでに、ソレは強い力を持っていた。彼が弱いのではなく、彼が強いからこそソレも強い力を持ってしまっていることに彼は気付かない。気づく事は無い。
「あいつが……現れるというのか……?」
 『あの戦い』からずっと、彼を常に苛んでいた力はつい2,3日前から急に強くなっていた。
 それがアイツの復活を表しているようで、やるせない思いが浮かんでくる。
 有り得ないと理性が叫びだす前に、本能に近い部分が間違いないと叫びだす。そして、それを間違いでは無いと確信している自分を、彼は知っていた。
 「また、あんなことが繰り返されるのか……?」
 細く輝く月を見上げ、両手を握り締める。その手にはいくつもの傷ができ、血がゆっくりと流れ出していた。
 大声で叫びたい思いを押し込め、そのぶん思いを込めた吐息を空へと溶け込ませていく。
「そんなこと、させない……絶対に」
 彼の強い決意と想いを包み込めながら、夜はゆっくり更けていった。




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