神への祈りは、どこへ届くというの?
コツコツ、と足音を響かせて彼女は人気の無い廊下を歩いていた。
静かな場所。人が居ないわけではないのに、人の気配というものを全く感じさせない。それはつねに清潔に気を配ったせいでもあり、そしてまた、現在の状況のせいでもあった。
手に抱えたクリップボードの束を持ち直し、ふと、彼女は歩みを止めて窓から外を見つめた。外に面したそこからは、ちょうど正面玄関を見渡せる位置にある。
そこに、金と赤茶と緑の黒の髪をした中学生くらいの3人組が、玄関にいるのが目に入った。
「そっか……もう、退院するんだ……」
彼らを担当したのであろう数人の医師、そして迎えに来ていたそれぞれの家族らしき人物たちが入れ替わり立ち代り、声をかけ周りを囲む。それは、遠くからでなくともどこかぎこちなさが漂っているように見える。
退院といえば普通ならば明るくにぎやかなムード漂うはずのそれは、けれどどこか戸惑いが濃く現れているように思える。そして、それはおそらく見間違いではないのだろう。
どこが、おかしいわけでもない。
異常など、どこにもない。ただ、目に見える色が変わっただけのこと。
それは充分にわかっている。けれど。
「……不安でしょうね……あの子達も……その家族も……」
世界規模での、突然の異常。
誰も、何もわからない。ただ、何も変わらないことに驚き、戸惑いを抱くだけ。
そして、それを一番に感じているのは、当事者である彼らなのだろう。
ナースキャップから零れた髪を直し、彼女は眉を曇らせた。
「知っているのかしら。今、何が起きているのかを」
おそらく、彼らは知らされていないだろう。それは、病院内でもっとも厳しく言い渡されてきたことのひとつだから。
この世界に、突如現れた『異変』が――『異質』と呼ばれるモノが、自分達だけではないことを。
けれど、彼女もまた、知らない。
それが『異変』の全てではない、ということを。
「かんごふさん……っ」
「あらあら。どうしたの?」
ナースセンターに戻る途中、背後から聞こえてきた声に彼女は目を瞬いた。
自分の勘違いでなければ、それはこの病院に運ばれた「あの」患者の一人の少女で、その中でも特に自分に懐いてくれている子の声だ。にこにこと笑う表情が愛らしい少女で、確かおととい目覚めたばかりだったか。
それが、まるで泣き出しそうな声を出している。
ぱたぱた、とスリッパを鳴らして駆け寄ってきた小さな少女に向き直り、彼女は視線を合わせるためにしゃがみこんだ。
その目の前で立ち止まり、少女はくしゃっと表情を歪める。
「どうして、まなのかみのけ、へんになったの?」
「まなちゃん……」
じっと見つめる瞳に、いっぱいに溢れた涙を見つけて彼女は内心動揺しつつもそれを押し隠し、そっと手を少女の頬に添えた。柔らかなそれを優しくさすってやる。
「どうして?」
「だって、まなのかみ、くろかったもの。なのに、おきたらぴんくになってるの。ママ、かみのいろをかえるのきらいなのに……おこられちゃうよ。まなのかみ、へんだから」
ゆっくりと言った彼女にそう応えた少女は、きゅっと唇を噛み締め、小さなてのひらを握り締めた。
顔を俯けた拍子に、少女のふわふわとした髪が揺れる。――桃のような、可愛らしいピンク色の髪。それを緩やかに結んでいる青いリボンが、妙に目に映えた。
「かみのいろをかえる」というのは、おそらく髪を染めるということだろう。それを知っているから、この少女はこんなに悲しそうにしているのだろう。大好きな母親に怒られるのではないかと思って。
小さな笑みを浮かべ、彼女は俯いた少女の頬を軽くつん、とつついた。
「ほら、顔を上げて」
「ん……」
細い眉を精一杯にしかめ、悲しさを現している顔を見て彼女はにこり、と微笑んでやった。
幼い顔に浮かぶ表情が、ほんの少しだけ揺らいだ。明るい小麦色の瞳がゆらゆらと涙で潤む。
「大丈夫。お母さんは怒ったりしないわ。まなちゃんはどこもおかしくないの。だから、何も心配しなくていいのよ?」
「……ほんとう?」
「ええ、もちろん。ほら、そろそろ検診のお時間だから、もう病室に戻ろうね?」
「うん……」
とりあえず涙は収まったようだが、それでもどこか落ち込んだ様子のままの少女の手をひき、彼女はゆっくりと歩き出した。
ちいさな、自分よりずっと高い体温の手の感触を感じながら笑みを浮かべ、ゆっくりとした口調で語りかけるうち、そう遠くない病室の前に辿り着く頃には少女の顔からもなんとか笑みが浮かぶまでになっていた。
しかし、彼女は内心では暗い気持ちを抱え、ひっそりと吐息を漏らしていた。
少女を病室へと送り届け、担当の看護婦に預けると彼女は人気の少ない廊下へと進み、そしてきつく唇をかみ締めた。
あんな小さな子供さえ、理由のわからない『異変』に捕われている。
今はまだいい。少女も、その家族も。
けれど――これからは?
今はまだ、昏睡から目覚めた喜びが勝っていても、やがてそれが落ち着けば、残るのは未知なる『異変』への恐怖だけ。
それに直面したとき、いったい人々はどのような態度を取るのだろう。
突然人々の色素が変わる、という謎の『異変』はここだけでなく、日本を――そして世界中を襲っている。
けれど、その人々は、何もない普通の人々よりずっと少ないのだ。
それを思うと、胸のうちを冷たく重いものが満たしてくるのを感じる。
ヒトは、異質なものに敏感だ。多いものを支持し、少ないものを迫害する。そうして己の心の平安を保つのだ。
ならば、……彼らは、どうなるのか。
「できるなら、誰も苦しまないで、幸せでいてほしいのに……」
それは、彼女が看護婦という職業を目指した最初の理由。その動機。
何年かぶりにその言葉を呟きながら、彼女は何かに耐えるかのようにじっと、佇んでいた。
その日、その病院から3人の子供達が退院していった。
それぞれに色鮮やかな色彩を纏い、それと同じほどの希望と決意を抱いて。
向かう先は、一見以前と何も変わらないように見える町並み。けれど、今はもう、そこにあるものは違ってしまっているのだと、彼らは知っているのだろうか?
願わくば――彼らだけでなく、多くの人々が、幸せでいられるように。

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今回は未央たちが入院した病院の看護婦さん視点からです。
こんな風に彼らを心配している人間もいるんだよ、ということをアピールしたかったんですよ。
……このあとちょっと頑張ってもらわなくてはいけないので。
次はそれぞれの家庭の事情を少し、そして学校へと場面は映ります。
そこで改めて知る、『異変』の本当の意味。
出会う人々と、未央たちとの――というのが、第三章の内容です。
これから少しずつ魔法を増やして、登場キャラは出来るだけ減らして、が目標だったり。
「のったりゆっくり、けれど確実に」をモットーに頑張ります。
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