=====追憶の語り部=====

〜月の夜の魔法〜

【act.2】


 さあっと肌を撫でる風に、あたしは目を覚ました。

「……ん……」

 何が起こったのかわからず、ぼーっとしたまま目を瞬くとあたりが暗いことに気が付いた。
 いつの間に夜になったのだろう――そう思いながらふと上を見上げると、月が輝いていた。

 まんまるの、月。

 薄い燐光を夜の闇に撒き散らしながら、大きな月が夜空の中心で青い光を放っている。
 綺麗だな――とそんな美しい空を見るとはなしに見つめ、あたしはふと疑問を覚えた。

「……ここ、どこ?」

 小さな木の葉とあたしの髪の毛を揺らしながら通り過ぎていく、風。頭上でさわさわと かすれた音が響いていく。

 どういったわけか、あたしは地面に横たわっていたようだ。
 このままでは何もわからないので、とりあえず地面に手をついて上半身を起こそうと腕に力を込める。

「ッつ……」

 ゆっくりと起きるが、その途端に体のあちこちから鈍痛が襲ってきた。
 頬や腕にもひりひりとした鋭い痛みがある。

 どうしてだろう。怪我をした覚えもないのに……。

 身体中の痛みが気になりはしたが、それでもたいした事はないようだったのであたしはとりあえずそれを無視することにして、顔を巡らせて辺りを見渡した。

 目線の高さにある茂み。それはあたしのからだをぐるりと囲むような形で、枝が折れている。
 あたしの体の下の地面には、膨大な量の落ち葉や草がある。その下の土も柔らかい。

 どうやら、あたしはこの茂みの中に頭から突っ込んだようだ。身体中のひりひりとした痛み――細かな切り傷は、恐らく茂みの枝等で出来たのだろう。

 さらに先を見渡すと、ここがどんな場所だか大体わかってきた。
 ここは、深い森の中、だった。






 背のあまり高くない木々が、辺りを囲っている。背は高くはないとはいえ、その分細い枝が幾重にも広がっている。

 その中心、あたしのちょうど真上の辺りだけは、ぽっかりと穴が開いたようになっている。そこから先程みた月がひょっこりと顔を出す形となっている。

 その穴からは時折ひらり、ひらりと木の葉が舞い落ちてきていた。
 頭上の穴と現在の状況を照らし合わせ、あたしはやっと自分の身に何があったのかがわかった。

「――ああ、そっか。あたし、崖から落ちたんだっけ。……でも、なんで森の中にいるんだろ?」



 崖から落ちた。枝の折れた樹がある。だから怪我をしている。……それは、納得できる。
 けれど……あたしが落ちた崖は一体どこへいったのだろう?



 意識を失う前の状態と現在自分がいる場所のギャップが理解できず、あたしは困惑気味に眉を寄せた。

 痛みを堪え、鈍痛を訴える腕をさすりつつ闇の一番濃いところに目を凝らす。そうすれば、目が早く闇に慣れるのだ。明かりをつけるよりもよほど手間がかからない。

 しばらく待つと闇に目がなれてきたのか、はっきりと辺りが見えるようになる。

「崖、崖……っと」

 まじないのように小さく呟きながら、あたしはきょろきょろと視線を巡らせる。
 どう考えても、このすぐ近くにあるはずなのだ。

 でなければ、あたしは崖から落ちる夢を見たことになってしまう。そのままその場所で眠ってしまった――なんて、あまりにも馬鹿馬鹿しすぎる。

 じっと目を凝らしながら四方を見ていたあたしは、すぐにそれを見つける事ができた。
 思わず、唇から声が零れる。

「あ……あった」

 目の前にある樹の向こう側に、大きな岩肌――というより、堅い岩盤――が見えていた。
 間違いない。それが、あたしが落ちてきた崖だ。

 恐らく全身に打ち身などがあるだろうと予測して、ゆっくりと慎重に立ち上がる。
 すると、突然右足に強い痛みを感じた。

「いったぁ……!」

 涙がうっすらと滲んで来るが、慌てて唇を噛締めてなんとか大声を出す事だけは避ける。
 こんな場所で大声なんてあげたら、何が出てくるかわからない。それに――


(ほら、だから言っただろ? 夜の闇と霧には気をつけろって)


 なさけない、という想いが胸中を締める。
 どうしようもない悔しさが、溢れ出してくる。

 小さく被りを振り、浮かんだ涙を拭ったあたしは足を引きずるようにして目前の崖まで行き、頭上を見上げてやっと状況を理解する事ができた。

 あたしが落ちてきた崖は、森の真上に位置していた。
 ……もちろん、崖のすぐ隣から森があるはずもないのだが。






 崖から数メートル離れた位置に、森の端がある。あたしが気絶していたのは、その更に数メートル先。崖があった場所から、約十数メートルほど。

 あたしが立っている崖のまん前は柔らかな草が、あたしの膝の辺りまで茂っている。
 地面も柔らかいとはいえ、ここに落ちたのでは死にはしないが大怪我はしていただろう。

 どうやら、あたしは無意識のうちに崖から落ちている最中に崖を右足で力いっぱい蹴り、ほんの十数メートルの距離――短く、そして生死を別つ距離――離れた森の中へ身体を落下させたらしい。

 その際に右足を折ったかどうかしたようだ。
 それでも、この高さの崖から落ちた事を考えればずいぶん軽傷で済んだものだと思う。

「……うわ……冗談きっつ……よく無事だったな、あたし」

 しばしの沈黙の後、呆れたような声が洩れた。
 あまりの事――崖の高さと、この幾つもの奇蹟――に、呆然としていたのだ。

 森の中へ落下すれば、幾重にも張り巡らせた枝や落ち葉が衝撃を吸収してくれる。
 よっぽどの事がない限り、軽傷で済む。

 だが、運が悪く、そのまま崖の真下に落下していたら?
 ……考えたくもない。

 無意識での事とはいえ、よくも咄嗟の状況でそんな事ができたものだと自分自身に感心してしまう。

 そして。

 我知らずに、体が震えてくる。
 無事だったことを喜ぶよりも先に、何故無事だったかを疑いたくなってしまう。

 ふいに心細くなり、あたしは空を見上げた。
 月はいつの間にか、中天に輝いていた。青い色を宿した、美しい夜の女神にも例えられる月。

(月があれだけ高いって事は……ずいぶん長い事気絶してたのかな?)

 覚えている記憶では、まだ日が沈んでいなかったように思う。
 霧が出ている時間帯だったから、短くても5時間以上は意識を失っていた計算になる。





 彼は、心配しているだろうか――。





 ふっと、突然そんな事を思った。

 あたしは慌てて頭を振る。
 どうしてか、彼の事を素直に考えたくなかった。

 今はそれよりも、自分の身の安全を優先しないといけない。
 どこともわからない森の中で一人でいるという今の状態を必死に考える事で、あたしは脳裏に浮かんだ青年の姿を追い払おうとしたのだ。

「さて……これからどうしよう」

 呟いては見たものの、やる事は決まっている。

 さきほどちゃっかりと体の傍にあるのを見つけて持ってきていた装備を持ち、何もなくなっていないことを確認してから改めて辺りを見渡した。

 背後には聳え立った崖、眼前には森。森からは怪しげな物音が時折聞こえてくる。

 この辺りにはそうそう強いモンスターがいるという話は聞かないが、それでも夜の森の中で一人で居るのは危険だ。
 そう判断したあたしは、崖沿いにゆっくりと歩き出した。






「森に行くよりはここにいたほうが安全だよね」

 さっきいた場所から少しはなれたところ。

 草も少なく、堅い土が地面を覆う場所を見つけたあたしはそこに腰を下ろしていた。
 さっきいた所でも構わなかったのだが、虫が多いのと森が近すぎるのとで移動したのだ。

 ここは崖から森まで――樹の生えているあたりまで、少しはなれている。ここなら、モンスターや動物が襲ってきてもある程度の対処ができるだろう。そう判断しての事だ。

「……あ〜あ……」

 痛みを無理に堪えていた反動か、座り込んだとたんに身体中が痛みを訴えだす。
 全身にある小さな切り傷と打撲がずきずきと痛み、右足は熱を持っているようだ。心なしか、膨らんでしまっているようにも思える。

「骨折しちゃったかな……っと」

 荷物の中から赤い木の実――この辺りでは一般的な回復薬を取り出し、簡単な手当てをする事にした。切り傷には薬を塗ってテープを張り、薬草は喉に押し込む。

 その後、水筒の水で濡らした布を足首にそっと押し当てた。こうしておけば、多分大丈夫だろう。
 とりあえずはこれ以上痛みと腫れが酷くならなければ良いし。

 背中を崖に預けると、あたしは目を閉じてそっと静かに耳を澄ました。

 虫たちの囁き声が聞こえ、木々が葉を擦らせて柔らかく語りかけてくる。風が不安と苛立ちに荒れたあたしの感情を静め、月の光が優しく照らしてくれる。

 一人、静かな場所で目を閉ざしていると、いつしか脳裏に一人の青年の姿が現れてきていた。






 年齢不相応に大人びている雰囲気。
 やや細めながら、意外としっかりしている体。
 こげ茶色の柔らかい髪の毛。
 厳しくも優しい、自分のものよりもずっと低い声。


 闇よりも濃く、そして――深い色を宿した、瞳。


 それは一見、冷たい色にも見える。でも、あたしは知っている。

 彼の瞳の中に浮かんでいる色を。その、例え様の無い深い哀しみを。
 時折浮かぶ、泣きそうになった幼子のような表情を。

 出会ったばかりの頃は、人の良いふりをしていた。どんなに覗いても彼の心は見えなかった。
 長い事旅をしていくうちに、彼が心を開いていってくれるのが嬉しくて。

 そして、その瞳を見つけるたびに泣きたくなった。

 そんな一つ一つの感情を想い、あたしは今まで悩んでいたことがとてつもなくつまらない事のように思えてきた。

 最後に見た、彼の表情。
 驚きと、苛立ちと、……小さな小さな、哀しみの色。






「どうして、素直に言えなかったんだろう。足手まといはいやだって。そう、きちんと言っていたら……シオンだって、教えてくれたかもしれないのに」




 あんな表情をさせるつもりじゃなかったの。

 ただ、足手纏いになりたくなかっただけなのに。

 一緒に居られるようにって、そう、思っただけなのに。




 不意に、久しく忘れていた孤独が襲ってくる。
 一人きりで旅をしていた頃の事。心細くて、夜になるといつも涙を零していた頃の事。

(あたしは……きっと、シオンに護られていた)




 このちっぽけな命を、心を。
 自分でも、気がつかないうちに。






「シオン」






 どうしようもなく切なくなって。想いが溢れ出しそうになって。
 彼の名を小さく呟くと、涙が零れてくる。……弱い、自分。

 強くなりたいのに、全然駄目だ。

 弱いままでいたくないのに、何かがあれば、すぐに涙が零れてしまう――。

「……ごめんなさい……」

 瞼を閉ざしたまま、頬に流れる涙をそのままにして。
 あたしはそう呟いた。






 怒らせたかったわけじゃないんだよ。
 ただ、一緒にいたかっただけ。

 同じ場所に立って、歩いていきたかっただけ。
 なのに――。







「ごめん、なさい――」

 ぽろり、と流れる涙を感じながら、あたしは再度小さく呟いていた。

「そう思うんだったら……最初っから、やるな」

「……え?」

 突然耳に響く、懐かしくて――そして、心地よい声。
 愛しさとせつなさが胸中を襲い、激しく心臓が鳴り響く。

 胸元を片手で強く握り締めながら、あたしは慌てて声のした方を見やった。



 精一杯に見開いた先。




 煌々と輝く月を背に、シオンが佇んでいた。




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