〜月の夜の魔法〜 【act.3】 背に月を背負い、微かに肩を上下させて佇むひとりの青年――シオン。 見慣れているはずなのに、どうしてか、月光を背にしたその姿はあたしを強く惹きつける。 注がれる眼差しに、見た事もないほど強い光が瞬く。 感情の読めない強い光に気おされ、あたしは意識せずに身体を縮めていた。 ひゅっと変な音をたてて、鋭く息を飲み込む。 そんな自分に困惑したように視線を動かし、あたしはまた、大きな驚きに目を見張った。 雲に遮られ、やや明度の落ちた光に照らされた彼の茶色の髪は、いつもよりも明るい色に見える。その髪には小さな枯葉の欠片が絡み、腕や足にはいくつもの小さな切り傷。 さらによく見れば小さな傷は身体全体に見え隠れし、そして泥や砂がこびり付いている。 普段の彼らしくない、そんな姿。 「な……どうしたの、それ!?」 「……どうした、じゃないだろ」 感情の篭らない静かな声で言いながら、一歩ずつ、ゆっくりとした足取りで近付いてくるその足取りは、あたしの目の前で止まる。 いつもとは違う雰囲気は、あたしたちふたりを隔てる境界。 たった一歩分の距離の間には、何もありはしないのに。近付く事さえ、出来なくて。 そのままの姿勢でどうする事もできないあたしを見つめた後、シオンは不意に視線を落とし、すっと片手を伸ばした。 ビク、と小さく身を震わせたあたしを気にせず、まっすぐに伸ばした手をあたしの右頬にそっと沿える。 その手が何かを確かめるように頬を撫でた後、そっと、静かに離れていく。 ちいさな、そしてほんのわずかな寂しさが、あたしを覆う。 彼は大きくため息を漏らし、ずるずると崖に身を預けながらしゃがみ込んだ。 たったそれだけのことで、それまでの呪縛が解かれたかのような気がした。 自由になる、空気が。 今までそんな疲れた様子を見せた事のない彼だけに、あたしは酷く慌てて一歩の距離を詰めた。 痛めた足に強い痛みが走る。けれど、それを無視してあたしはシオンを覗き込んだ。 なんと言うべきか若干迷い、やっと出てきた言葉はひどく平凡なもの。 「……だいじょう、ぶ?」 「…………」 顔をうつむけたシオンにわけもなく鼓動を早めながら、あたしは彼の隣にそっとひざをつけた。 視線を彷徨わせると、今も尚シオンが頬から血を流しているのが目に入った。迷った末にあたしはゆっくりと、恐る恐るといったように手を伸ばし――突然、それを掴まれる。 唐突なその動きにも、怖いとは思わなかった。 痛みさえ感じるそれには、確かに彼の鼓動が伝わってきて。 ……あたたかい。 きつく、力を込めて掴まれたままの手。小さくない、男の手をしたそれにも、幾つもの傷が浮かんでいる。血がにじみ、泥にまみれた、手。 幾度となく、あたしを救ってくれた、その手。 あたしが何も言わずにいると、俯いたままのシオンはそっと、小さく声を漏らした。 「……無事で、良かった……」 トクン、と心臓が小さな音を刻む。柔らかな鼓動が、やけにはっきりと耳に響いた。 風にさらわれて消えてしまう、ギリギリの音量での小さな呟きが流れ。 そうしてさらに、強い力で手を握られる。 きつく、けれどこの手が壊れないように、そっと力をこめて。 「……頼むから、勝手にいなくなるな」 シオンから零れ出す、言葉。 それは、聞いているだけで切なくなるほど、彼の想いがこめられているようだった。 ちいさく、けれど数え切れないほどの願いが込められた、懇願。 「いくら探しても見つからなくて、どうなったのか凄く不安になって……そしてやっと見つけた思ったら、お前は崖から落ちる所で。それを見てた俺がどんな気持ちだったと思う? 間に合わなかった俺が、何を考えたと思う?」 止まらない言葉と、溢れる想いが……張り裂けそうになるほど、つらい。 どうしたら、いいのだろう。 守りたいのに。微笑んでいてほしいのに。一緒にいたいのに。 誰も知らない場所に縛り付けておけば――こんな想いをしなくても、すむのだろうか? そうすれば――…… 相変わらず顔は俯けたままだから、シオンがどんな表情をしているのかわからない。 けれど、強く握られた手――彼のその手が、微かに震えているように見えるのは。 たぶん、きっと錯覚なんかじゃない。 「助けに行きたくても崖は深いし、降りれるとこもなかなか見つからないし。……どれだけ呼んでも、どれだけ探しても返事も何もなくて……」 「ごめん……」 「何度も言っただろう? それなのに、どうして」 「……ごめん、なさい……」 それだけしか、言えなくて。 胸の奥から溢れる熱いものに、あたしは堪えるかのようにうつむいた。 どうして、わからなかったのだろう? シオンはこんなにも、あたしを心配してくれていたのに。 「……ごめんなさい……わがまま言って。心配させて、ごめんなさい……」 するっと、目から涙が零れ落ちた。 堪えきれない涙に、視界が少しずつ、歪んでいく―― どれだけの時間が経ったのだろう。たぶん、それほど長い時間は流れていないのだろうけど。 風が流れ、草木がゆれる音がする。虫達が囁き、月がゆっくりと移動しながら優しい光を落とす。 ……不意にシオンが、小さな吐息を洩らすのが聞こえた。 思わずビクリ、と肩がゆれる。それは繋いだ手を通して、彼にも伝わっただろう。 もしかして、呆れられたのだろうか? そう、思ったとき――ひどく優しい仕草で、頭に手が置かれた。 驚いて顔を上げると、びっくりするくらい優しい、けれどとても悲しそうな表情でシオンが微笑んでいた。 今までも幾度か目にした事のある、影のある悲しげな微笑み。 涙が零れるほどに、哀しくて切ない……そんな眼差し。 頭をすべった手が頬に触れ、涙のあとをかるく拭っていく。 「……シオン?」 「ごめんな」 小さく呟いた声に、被せるように落とされたのは紛れもない謝罪の言葉で。 あたしはあまりの驚きに、零れるほどに大きく目を見開いていた。 何を言われたのか、一瞬わからなかった。 どうして、シオンが謝るの? シオンは何もしていないのに。悪いのは全部、あたしなのに。 そんなあたしの思いを知ってか知らずか、シオンは視線を前へと向けた。 その瞳にあるのは、胸が張り裂けそうなほど切ない、光。 その先にあるのは、遠い遠い、あたしでさえ知りえない、彼の想う情景。 「想ってるだけじゃ、伝わらない……」 握り締めていた手の力を緩め、隣に座るように指し示すシオンにあたしは大人しく従った。 付かず離れず、肩が触れ合うギリギリの距離。 ゆるく繋がれた手から、穏やかな鼓動と暖かな熱が伝わってきた。 こんな時なのに――それとも、こんな時だからか――ひどく、はっきりと実感する。 あたしは、こんなにも彼が好きなのだと。 「……俺が初めからきちんと言っとけばよかったな。そうすれば、ケンカだってしなくてすんだんだ、きっと」 その言葉に反論しようとしたあたしの口は、けれど、シオンの横顔を見た瞬間に動かなくなってしまっていた。 彼の年齢とはかけ離れた、老成して疲れきった、そんな表情が浮かんでいる。 シオンはただ、静かに言葉を紡ぐだけ。 繋いだ手を介し、しずかにお互いの体温がつたわる。 「……どういったらいいのかな……」 ためらうように一度言葉を切った後、軽く握った指先に力がこめられる。 あたしはそれを、黙って握り返した。 「俺がエリナに刀を持って欲しくなかったのは、戦うすべを知って欲しくなかったのは、……そういった、刃<やいば>を持つ武器は必ず、相手を『切る』事をしなくちゃならないからだ。それは、相手を傷つけ、血を流すということ」 「……それは……」 ごくごく当たり前の、当然の事だ。 煌く刃は、それをもって切り裂き、そうすることによって武器としての役割を果す。 おそらく、この世で一番人に身近で、そして最もありふれた、武器。 「魔物だけを相手にするならそれでもよかったんだ。でも……俺と一緒にいると、あいつら――刺客も相手にしなきゃいけなくなる。いつか、絶対に」 「…………」 「……あいつらは、武器を持った相手を優先して狙う。そして、そいつらと戦うということは、……人を殺すということになるんだ」 今度こそ、あたしは絶句した。 武器を持つことの意味を、全然分かってなかったんだ。 ただ、それがあれば自分を――彼を守れるのだと。そう、思っていただけだった。 でも、それは違った。 そして、シオンはそのことをよく知っていた。だからこそ、あたしが武器を手にすることに反対したのだ。 「俺が知っているのは人殺しの技だし、この手だってもう血塗れだ。どうしようもないくらいに。……それはもう、構わない。生きていく為にって、随分昔に割り切った事だから。でも、エリナまでそうなる必要はないんだ。……いや、そうなって欲しくない、俺が」 そう言いながら己の両の手のひらを見つめる彼は、とても悲しそうな表情をしていた。 辛くて、慰めて欲しくて――でも、それに耐えることを覚えてしまった、耐えられるだけの強さを身に付けてしまった人の顔。 一瞬の既視感(デジャ・ビュ)が、知らない人の顔と彼の顔とに重なって見える。 「勝手な言い分だけど、俺はエリナには今のままでいてほしい。……俺の所為で、わざわざその手を、澱んだ血で汚して欲しくない……」 「……そんな……そんなのって……」 弱々しく被りを振るあたしを、苦笑しながら振り返る。 儚い、笑みで。 それは、朧げな月の光にさえ、消えてしまいそうで――。 「な。……勝手だろ?」 俺はわがままだからさ、と自嘲するかのように小さく笑ってみせる。 ずっと、綺麗なままで……ずっと微笑んでいて欲しい。 そのためになら、なんだってするから。 声にならない想いが聞こえたような気がして。 胸に、鋭い痛みが突き刺さる――。 「違うの、そうじゃない……」 悔しくて、切なくて、もどかしいほど何を言ったらいいのか分からない。 そんなこと、言ってほしくない。そんな風に笑ってほしくない。 そんな風にしてまで、護って欲しいわけじゃない……!! 「あたしは、……足手まといがイヤなだけなの」 荒くなりそうな声を必死に堪え、握られた手をぎゅっと握り返した。 囁くようにして告げた言葉に、シオンは驚いた様子でゆっくりとかぶりを振る。 「そんなこと――」 「だって! あたしの所為でいつもシオンは怪我をして、つらい思いをしてる。そんなの、イヤなの。あたしだって、――あたしだって戦えるのに!」 シオンがはっとしたように目を見張る。 驚いたような眼差しの中で、蒼の瞳がおおきく揺れている。 シオンはずっとひとりだったと言っていた。 裏切られ、傷つけられ……そして、いつしか人を信じることを止めてしまった、シオン。 すべてを『ひとり』で成し遂げることに慣れてしまった彼には、わからないのかもしれない。 共に生きるという、その本当の意味が。 あたしだって、それを本当にわかっているのかどうかはわからない。でも。 共に生きるのならば、どちらかがどちらかを一方的に支えるのではなく、お互いが支え合わなければいけないと、想うから。 少なくとも、ただ、守られているだけではダメだと想うから。 一緒に歩くと決めたときから、ずっと願っていた。 シオンがあたしを助けてくれるように、あたしもシオンを助けたい。 同じ視点で見て、同じ道を歩んでいきたいから。 「あたしだけ護ってもらって、それでシオンが戦って……いつもそう。でも、そんなのはもうやだよ……耐えられないよ! あたしだって戦えるのに! その力があるはずなのに!」 目から涙が溢れてくる。 どうして、こんなに涙が溢れてくるんだろう? どうして、こんなにも苦しいのだろう? ただ、伝えたいだけなのに。 「いつもあたしは足手まといになってて……でも、あたしは見てるだけなんて……苦しいよ。悲しいよ。シオンが怪我をして、あたしが無事だからって笑ってくれても……見てるのって、見てるだけなのって凄く辛いんだよ? あたしは」 言葉が途切れる。 いままでずっと堪えてきた言葉。それを言うのに、どれほどの勇気がいるのだろう。 でも。いまなら、言える気がした。 だから、あたしはゆっくりと口を開いた。 「あたしは――シオンの役に立ちたいんだよ」 あたしはわずかに荒くなった呼吸を整えながら、ただシオンを見つめていた。 |